大学の分かれ道
- 2016/01/26
- 21:56
私が法政大学文学部に入ったわけ。別に強い希望ではないです。第一志望の早稲田の第一文学部に落ちただけです。他にワケなんて有りません。法政の文学部と早稲田の第二文学部の受験日が同じだったので、どっちにしようかなあと・・・。
早稲田の二文は吉永小百合の出たところですが、当時も今も私はサユリストではないんじゃ。もし栗原小巻オネエ様だったら絶対に早稲田二文を受けてた、間違いない。
法政に入学して体育の授業、二人組になって体操をするんですが、その時タマタマ相棒になったヤツが三曲会に入部して尺八を始めていたのです。その男が大学に入って最初に出来た友達だったので、それならと私も三曲会に入ったというワケです。
たまたま、偶然、何かの拍子、そんなモンですって。人生の岐路だとは、その時に思うワケないです。
もし、第一志望の早稲田の一文に合格していたら。体育で塚越というその男と組にならなかったら。いずれ全く違った人生が有ったわけですな。
大学の邦楽部で一番プロ尺八家を輩出している所は中央大学でしょう。竹桐会という邦楽クラブには尺八は都山と琴古が有りますが、どちらからもプロが出ています。
都山は今はたしか山本真山さん、琴古は菅原久仁義さんが教えていますが、とにかく、ここは異常です。都山が山本邦山先生を講師にむかえたのは1967年か68年ですが、それ以前、杉本僊山先生の時代にも、読売巨人軍の選手達に尺八を教えていた門馬笙山さん、新都山の埼玉支部長だった早川香以山さん等が出ていますし、邦山先生に変わってからは難波竹山さん、田辺冽山さん、山本真山さん、芸大に転じた松田惺山さん。
琴古も田中如童先生の時から實方鈴雀さん、高橋龍童さんがいますし、横山勝也先生になってからも香川一朝さん.その香川さんが講師になると、卒業後に芸大に改めて行った加藤秀和さん、加藤さんの時には本間豊堂さん。香川さんの1年後輩で青木鈴慕門下だった橋本竹詠さん等、プロだらけです。
中央大はОBであってもプロは「先生」と呼ぶ習慣が有ります。他の大学ではクラブの講師でなければマズ呼ばれないですわな。
中央大出身者にプロが多いわけ。弟子をプロにする優れた師匠がいたからです。
私が法政以外の大学であったら・・・。イチオウ邦楽クラブに入っていたとしましょう、それでも尺八のプロになっていたのでしょうか?
絶対にそれは無い。私がプロになれたわけ、法政には束縛が無かったからです。
法政大学三曲会の長所は、クラブ内の事は講師やОBに断固として介入させなかった事です。もともと法政大学三曲会には琴古もいたのですが、私の入る2年前に都山、生田、山田が一致してクラブから出してしまいました。その理由は、琴古は納富寿童先生の門下だったので、寿会の都合をクラブに持ち込んだ為です。
それに加えて、クラブ内では完全な言論の自由が有りました。ウチの先輩は顔と同程度に口が悪い。でも絶対に後輩を押さえつけない人ばかりでした。口では有らん限り罵声を浴びせますが、頼み納得すると全力でサポートしてくれました。私の2年上に箏で本多という気難しい人がいて、入部以来私は、この人だけが苦手でした。でも、ある時に合奏を外部から依頼されて、私はどうしても本多さんの箏が必要になりました。頼んでも案の定「駄目だ。オマエには無理だ」の一点張りです。そこを頼みまくって一緒にやってもらい、結果は先輩の危ぶんだ通り失敗しました。「すみません、僕のせいで」と謝ると、「終わった事は言うな、良い勉強をしたと思え」と笑ってオシマイ。こんな良い先輩達って他の大学で廻り遭えたのでしょうかね。
先輩、同僚、後輩、私達の仲の良さは、40年経った今も変わらずに続いています。
私がプロになれたのは法政大学三曲会以外では有り得ません。結果、尺八人生に満足していますから、数々の偶然も今となっては必然となりました。第一志望に落ちた事も今では有難いと思っています。
早稲田の二文は吉永小百合の出たところですが、当時も今も私はサユリストではないんじゃ。もし栗原小巻オネエ様だったら絶対に早稲田二文を受けてた、間違いない。
法政に入学して体育の授業、二人組になって体操をするんですが、その時タマタマ相棒になったヤツが三曲会に入部して尺八を始めていたのです。その男が大学に入って最初に出来た友達だったので、それならと私も三曲会に入ったというワケです。
たまたま、偶然、何かの拍子、そんなモンですって。人生の岐路だとは、その時に思うワケないです。
もし、第一志望の早稲田の一文に合格していたら。体育で塚越というその男と組にならなかったら。いずれ全く違った人生が有ったわけですな。
大学の邦楽部で一番プロ尺八家を輩出している所は中央大学でしょう。竹桐会という邦楽クラブには尺八は都山と琴古が有りますが、どちらからもプロが出ています。
都山は今はたしか山本真山さん、琴古は菅原久仁義さんが教えていますが、とにかく、ここは異常です。都山が山本邦山先生を講師にむかえたのは1967年か68年ですが、それ以前、杉本僊山先生の時代にも、読売巨人軍の選手達に尺八を教えていた門馬笙山さん、新都山の埼玉支部長だった早川香以山さん等が出ていますし、邦山先生に変わってからは難波竹山さん、田辺冽山さん、山本真山さん、芸大に転じた松田惺山さん。
琴古も田中如童先生の時から實方鈴雀さん、高橋龍童さんがいますし、横山勝也先生になってからも香川一朝さん.その香川さんが講師になると、卒業後に芸大に改めて行った加藤秀和さん、加藤さんの時には本間豊堂さん。香川さんの1年後輩で青木鈴慕門下だった橋本竹詠さん等、プロだらけです。
中央大はОBであってもプロは「先生」と呼ぶ習慣が有ります。他の大学ではクラブの講師でなければマズ呼ばれないですわな。
中央大出身者にプロが多いわけ。弟子をプロにする優れた師匠がいたからです。
私が法政以外の大学であったら・・・。イチオウ邦楽クラブに入っていたとしましょう、それでも尺八のプロになっていたのでしょうか?
絶対にそれは無い。私がプロになれたわけ、法政には束縛が無かったからです。
法政大学三曲会の長所は、クラブ内の事は講師やОBに断固として介入させなかった事です。もともと法政大学三曲会には琴古もいたのですが、私の入る2年前に都山、生田、山田が一致してクラブから出してしまいました。その理由は、琴古は納富寿童先生の門下だったので、寿会の都合をクラブに持ち込んだ為です。
それに加えて、クラブ内では完全な言論の自由が有りました。ウチの先輩は顔と同程度に口が悪い。でも絶対に後輩を押さえつけない人ばかりでした。口では有らん限り罵声を浴びせますが、頼み納得すると全力でサポートしてくれました。私の2年上に箏で本多という気難しい人がいて、入部以来私は、この人だけが苦手でした。でも、ある時に合奏を外部から依頼されて、私はどうしても本多さんの箏が必要になりました。頼んでも案の定「駄目だ。オマエには無理だ」の一点張りです。そこを頼みまくって一緒にやってもらい、結果は先輩の危ぶんだ通り失敗しました。「すみません、僕のせいで」と謝ると、「終わった事は言うな、良い勉強をしたと思え」と笑ってオシマイ。こんな良い先輩達って他の大学で廻り遭えたのでしょうかね。
先輩、同僚、後輩、私達の仲の良さは、40年経った今も変わらずに続いています。
私がプロになれたのは法政大学三曲会以外では有り得ません。結果、尺八人生に満足していますから、数々の偶然も今となっては必然となりました。第一志望に落ちた事も今では有難いと思っています。
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