私の大学時代は、まだ大学の郊外移転や学部別に場所が分かれるという事もなかったので他大学との交流は簡単でした。法政は山手線の円のほぼ真ん中、千代田区に有りましたので、何処へでも比較的簡単に行けました。私は街歩きが好きでしたし、ほとんどの大学が山手線の円の内側に有りましたから、ダイタイ歩いて行きましたよ。
45,6年前ですから、東京は戦災を受けたとは言え、戦前の名残りがいたるところに残っていました。流石に「江戸情緒」となると探すのは困難でしたな。
明治大学の尺八に用が有る時は九段を抜けて、神田神保町の何十軒有るのか分からない古本屋を見ながらでも1時間で駿河台です。当時は中央大学が郊外の八王子に移転する前でしたから明治の隣、ですから中央にも顔を出すのが何時ものコースでした。
中央の尺八は当時は部室が無く、地下の牢獄みたいな廊下で練習していました。マアお似合いと言えば言えますな・・・。
帰りはニコライ堂を通って御茶ノ水駅に出て電車で帰るか、再度歩きで帰り道の専修大か神田錦町の電機大に寄りました。
ニコライ堂、このロシア正教の教会は、戦時中はアメリカ軍の目標計測点になっていましたので、そこを中心とした半径何百メートルだかは空襲を受けなかったのです。ですから戦前の面影も濃厚に残っていましたし、白系ロシア人も住んでいてチョット不思議な一画でした。
私の贔屓は白系ロシアのオバちゃんのやっている
サラファンというロシア料理店です。学生でも入れる店。安くて本当に美味しい。
当時の東京下町の店は自前が多く、家賃負担が無かったので安くて美味しい店が多かったですね。
セレブなオイラがサラファンでワイン片手にロシア料理を楽しんでいる頃、中央の尺八のヤツラは決まって
神田みますやで、オシンコとかのケチなツマミで大酒を飲み、オダとゲロをあげて、危うく百年続く老舗居酒屋をドカタ飲み屋にするところでした。中央大の八王子移転を一番喜んだのは、みますやでしょう。
早稲田大学は虚竹、竹友、箏研と3つも邦楽部が有りました。間違えてはイケナイ、虚竹が竹友社(川瀬)系なのです。尺八のみのクラブでしから、合コン合ハイの相手には東京女子大の箏曲部を選んでいました。ここの箏曲部出身の女優・竹下景子さんは昭和48年頃の思い出として虚竹との合ハイを懐かしそうに話していましたよ。
ちなみに田辺頌山さんは都山の無い早稲田で学生時代は虚竹で琴古の尺八を吹いていました。
私が行くのは竹友が多かったですね。ここは神如道系で箏も持っていました。1970年度の関東学生三曲連盟の委員長の阿部さんがいたからです。
早稲田は中学から6年通った懐かしい町で、当時は隅々まで知っていました。ここも市ヶ谷の坂を上がり、牛込柳町を通り歩いて45分です。
早稲田は全くの学生街で、ついでに馴染みの店に顔を出しました。
今は往時をしのぶヨスガも有りませんが、20年前ですと、まだ昔が残っていて、そういう風景に会うたびに、そのまま部室に直行すれば昔の懐かしいヤツラが変わらず尺八を吹いているような気がしたものです。
今も昔の面影を残しているのは慶応と、青山学院、国学院、実践女子大などの山手の西側一帯の大学ですかね。でも私はたまにしか行かなかったので、そんなに懐かしいという気がしません。
トモカク、学生邦楽に籍を置いていた者同士は、大学や年代が違っていても、共通の友人知人あるいは話題で、すぐ打ち解けますよ。大学時代の尺八が東京生まれ東京育ちの私の故郷です。
当時、大阪から頻繁に上京していた倉橋容堂も、東京の大学のあたりを歩いていると堪らなく懐かしい思いがして、学生時代に引き戻され胸が熱くなると言っていました。
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