ドサマワリ
- 2016/03/02
- 21:03
私の祖父は多量の掛け軸を持っていました。ほとんどが新潟で小さな工場を営んでいた時、祖父の人生で一番に金マワリの良かった時に買い集めたモノです。
名の知られた画家の手になるモノなど有りません。それでも祖父は「この絵を画いた人は鏑木清方の一番弟子で、伊藤深水より師の期待の高かった人だ」とか「この書はスゴイものだ。何しろ明治天皇の歌の先生が書いたんだからな」だとか言って自慢していました。
大正期はまだ情報の伝達が未発達だったので、こういう「田舎マワリのヘボ絵師」がタクサンいました。念のために申しあげますが、この差別的表現は私が言うんではなく、夏目漱石の『坊ちゃん』に出てきます。
東京や京・大阪で喰い詰めた画家が、情報の伝わらない地方に流れて行って、経歴をオーバーに膨らませて、土地の金持ちや豪家に一定期間泊まり込んで画作活動をするわけです。
土地の有力者も、自分の家に「有名人」が滞在している事が自慢で、ホウボウに吹聴して回りますので、素朴純情な田舎紳士達が金を握りしめて集まって来ます。「オラにも何か画いてくれるよう頼んでや」。「まかしとけや。オラが頼めば相場の半値、いや三割で画いてくれるとよ」。
そうして、ある期間が過ぎて需要がいきわたると次の土地に移るのです。これが芸人だとドサマワリ。相撲やプロレスでは地方巡業ですな。ゴゼだとか琵琶語り、俳諧師だとかも基本的にはこうやって暮らしていたようです。
尺八ではこうはいかなかったようですな。つまんないですもんね。でも戦争中の疎開事情などを聞くと、濃厚な付き合いをしていたファンの地方実力者を、有名な尺八家なら、ある程度は持っていたようです。戦前は大土地所有者がゴロゴロしていましたし、税制も今と違っていましたので困窮した他人の生活の面倒をみる人が珍しくなかったのです。
15年前に初めて台湾で尺八展示会を行ないましたが、情宣活動としては、私の尺八を買ってくれた台湾人4人に事前にファックスを流しただけです。そうしたら台北で40人以上、高尾で10数人が来てくれました。当時の台湾の尺八人口は90人ほどだったのですから、6割の人が来てくれたのです。
「日本から超有名な尺八製作家が来る」という話がイッペンに広まったわけです。その情報はベツダン嘘ではありませんし尾鰭もついていませんが、当時の台湾の尺八吹きは実は私の名も知らなかったと思いますし、全般に尺八の情報は極めて貧弱でした。
何しろ、尺八吹きで一番有名な人が村岡実。ついで山本邦山。何人かの人が青木鈴慕、横山勝也を知っているというレベルです。
5日間の台湾滞在中は文字通りVIP扱い。私の知らないうちにスケジュールが決まっていて、朝から夜12時近くまで車で引っ張り回されました。
次々と訪問先や食事会のお誘いが入り、うまく断らないと一晩に2回も3回も中華料理のフルコースを食べるはめになります。
招待も、台湾屈指の民族音楽オーケストラの楽団長だとか、音楽大学の学長だとかで、食事の後、楽団の練習風景や学校設備を見学させられて感想を求められました。
皆が、勘違い、オットいけない、情報が正しく伝わっていて、大橋鯛山にふさわしい扱いをしたんですね。
今は台湾には尺八情報が詳しく広まり、もうこんな事は有りません。中国では、まだ台湾ほど尺八事情が知られていませんが、それでもかなり知っていて、昔の台湾みたいな事は有りません。せいぜいがプレゼントを貰ったり、ツーショット写真を頻繁に頼まれる程度です。
この15年の差は、言うまでも無くインターネットの普及です。もう、戦前に吉田晴風が台湾公演をやり、本物かどうかの問い合わせが内務省に有ったとか、韓国大統領だった李承晩の甥を自称した男が各地で大名旅行をしたという様なことは間違っても起こりえません。
ですから、不遇な芸術家演芸家の底支えをしてきたドサマワリ、田舎マワリももう死語です。ですから生活の為のセーフティーネットは別に考えるしか有りませんな・・・。
名の知られた画家の手になるモノなど有りません。それでも祖父は「この絵を画いた人は鏑木清方の一番弟子で、伊藤深水より師の期待の高かった人だ」とか「この書はスゴイものだ。何しろ明治天皇の歌の先生が書いたんだからな」だとか言って自慢していました。
大正期はまだ情報の伝達が未発達だったので、こういう「田舎マワリのヘボ絵師」がタクサンいました。念のために申しあげますが、この差別的表現は私が言うんではなく、夏目漱石の『坊ちゃん』に出てきます。
東京や京・大阪で喰い詰めた画家が、情報の伝わらない地方に流れて行って、経歴をオーバーに膨らませて、土地の金持ちや豪家に一定期間泊まり込んで画作活動をするわけです。
土地の有力者も、自分の家に「有名人」が滞在している事が自慢で、ホウボウに吹聴して回りますので、素朴純情な田舎紳士達が金を握りしめて集まって来ます。「オラにも何か画いてくれるよう頼んでや」。「まかしとけや。オラが頼めば相場の半値、いや三割で画いてくれるとよ」。
そうして、ある期間が過ぎて需要がいきわたると次の土地に移るのです。これが芸人だとドサマワリ。相撲やプロレスでは地方巡業ですな。ゴゼだとか琵琶語り、俳諧師だとかも基本的にはこうやって暮らしていたようです。
尺八ではこうはいかなかったようですな。つまんないですもんね。でも戦争中の疎開事情などを聞くと、濃厚な付き合いをしていたファンの地方実力者を、有名な尺八家なら、ある程度は持っていたようです。戦前は大土地所有者がゴロゴロしていましたし、税制も今と違っていましたので困窮した他人の生活の面倒をみる人が珍しくなかったのです。
15年前に初めて台湾で尺八展示会を行ないましたが、情宣活動としては、私の尺八を買ってくれた台湾人4人に事前にファックスを流しただけです。そうしたら台北で40人以上、高尾で10数人が来てくれました。当時の台湾の尺八人口は90人ほどだったのですから、6割の人が来てくれたのです。
「日本から超有名な尺八製作家が来る」という話がイッペンに広まったわけです。その情報はベツダン嘘ではありませんし尾鰭もついていませんが、当時の台湾の尺八吹きは実は私の名も知らなかったと思いますし、全般に尺八の情報は極めて貧弱でした。
何しろ、尺八吹きで一番有名な人が村岡実。ついで山本邦山。何人かの人が青木鈴慕、横山勝也を知っているというレベルです。
5日間の台湾滞在中は文字通りVIP扱い。私の知らないうちにスケジュールが決まっていて、朝から夜12時近くまで車で引っ張り回されました。
次々と訪問先や食事会のお誘いが入り、うまく断らないと一晩に2回も3回も中華料理のフルコースを食べるはめになります。
招待も、台湾屈指の民族音楽オーケストラの楽団長だとか、音楽大学の学長だとかで、食事の後、楽団の練習風景や学校設備を見学させられて感想を求められました。
皆が、勘違い、オットいけない、情報が正しく伝わっていて、大橋鯛山にふさわしい扱いをしたんですね。
今は台湾には尺八情報が詳しく広まり、もうこんな事は有りません。中国では、まだ台湾ほど尺八事情が知られていませんが、それでもかなり知っていて、昔の台湾みたいな事は有りません。せいぜいがプレゼントを貰ったり、ツーショット写真を頻繁に頼まれる程度です。
この15年の差は、言うまでも無くインターネットの普及です。もう、戦前に吉田晴風が台湾公演をやり、本物かどうかの問い合わせが内務省に有ったとか、韓国大統領だった李承晩の甥を自称した男が各地で大名旅行をしたという様なことは間違っても起こりえません。
ですから、不遇な芸術家演芸家の底支えをしてきたドサマワリ、田舎マワリももう死語です。ですから生活の為のセーフティーネットは別に考えるしか有りませんな・・・。
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