主観の衝突
- 2016/03/04
- 22:07
文学部出身ですから若い頃は歴史小説だって詠みました。しかしまあ40年50年前ですと、日本にはロクな歴史小説家がいませんでしたな。
山岡宗八の『徳川家康』って文章の上手さ以外に感心した所は有りません。同じく『豊臣秀吉』は初めの方に、小物時代の秀吉を見た大原雪斎が「そなたこそ天下人」とつぶやく所が有り、もう読む気が失せて放り出しました。『伊達政宗』はトモカク最後まで読めましたが、もう一度読み返すつもりは有りません。何と言うか、歴史観が戦前のもので幼稚なんですよ。「皇国史観」とかのことを言ってるんとチャイマッセ。こういう学問も日進月歩だとつくずく分かります。そうかと言って、山岡本は講談本や「立川文庫」みたいに「文字を読む漫画」でも有りませんでしょう。
吉川英治は、基本的な間違いが多いですね。『三国志』なんかだと、中国文学科の学生だと基本的な知識の欠如に読むのがイヤになるのと違いまっか・・・。
まあ1人ひとり名を挙げてくさしても仕方が無いですが、結局は芸術だって時代の進歩に置いてかれるということですわ。江戸から明治中期まで人気の有った滝沢馬琴を若い日の二葉亭四迷がクサして、父親から「くたばってシメイ」と怒鳴られたのがペンネームの由来ですが、馬琴は志賀直哉にも『清兵衛と瓢箪』でからかわれています。
そういう中で良いと思ったのが海音寺潮五郎。トコトン惚れ込んだのが司馬遼太郎です。「神様仏様司馬様」。無神論者のオイラには神様仏様はいないからダントツで一位ですね。
「フザケタ事を言うな、山岡は素晴らしい」。当然こういう反論も有りますな、そうですよ。そういう主観が大切なのです。
学生時代に、杵屋正邦の「尺八四重奏曲」をやりましたが、船川利夫の大の信奉者だった永瀬憲治さんに言われました。「この曲のバカらしさに気がつかないと現代邦楽は広汎な支持を得られないだろう」。私は同感です。
ですが、当時は人気曲で三本会などプロでもやっていました。1971年の青木鈴慕リサイタルでは、当時の名だたる尺八吹き12人による同曲の演奏まで有ったくらいです。
当時は現代邦楽の揺籃期で、杵屋正邦は人気作曲家でした。「風動」なんか良いですよね。でも私は2年生の時にクラブ内の発表会で「流露」を吹いて、先輩から「背伸びしている」と言われましたが、五線譜を読める者には何ら難しいと感じる曲ではありません。むしろ幼稚なくらいです。
構造分析、数学的解析、数値化できるモノにおける正確さ、哲学的境地の高さ、そういった事はいくらでも論じられると思うんですよ。でもねえ・・・。
例えば村田英雄、音程はヒドイけど良いでしょう。音程の良いクラシックの人が演歌を歌うと何処か変だと思った経験ってありませんか。
35年前、ある外国人ピアニストの後援会というかファンクラブというか、そういうモノに入っていました。その会合で話されていた、時には感情的になった話など、邦楽畑の私には羨ましかったですね。
「ホロビッツのピアノには嘘が有る」、「いい加減な事を言うな。彼は素晴らしい」。こういった議論を大のオトナが、それもピアノに一家言を持つ者同士が延々と繰り広げるのです。未熟者の意地ズクや「反対の為の反対」ではないんです。
振り返って邦楽界ですと、若い時、まだ喰えなかった時は皆が熱心に語り合いましたが、その時からの感想です。もっとあらゆる角度からの批評を皆がして、良い悪いの主観をぶつけ合っていれば、邦楽の演奏会はこんなにもツマラナイモノにはなっていなかったと思います。
人との主観上の感想の衝突を怖れて芸術産業で生きていけるかい。未来と勝負できんのかよ。そういった点で三塚泉州さん、貴方は素晴らしい。敬服しています。
山岡宗八の『徳川家康』って文章の上手さ以外に感心した所は有りません。同じく『豊臣秀吉』は初めの方に、小物時代の秀吉を見た大原雪斎が「そなたこそ天下人」とつぶやく所が有り、もう読む気が失せて放り出しました。『伊達政宗』はトモカク最後まで読めましたが、もう一度読み返すつもりは有りません。何と言うか、歴史観が戦前のもので幼稚なんですよ。「皇国史観」とかのことを言ってるんとチャイマッセ。こういう学問も日進月歩だとつくずく分かります。そうかと言って、山岡本は講談本や「立川文庫」みたいに「文字を読む漫画」でも有りませんでしょう。
吉川英治は、基本的な間違いが多いですね。『三国志』なんかだと、中国文学科の学生だと基本的な知識の欠如に読むのがイヤになるのと違いまっか・・・。
まあ1人ひとり名を挙げてくさしても仕方が無いですが、結局は芸術だって時代の進歩に置いてかれるということですわ。江戸から明治中期まで人気の有った滝沢馬琴を若い日の二葉亭四迷がクサして、父親から「くたばってシメイ」と怒鳴られたのがペンネームの由来ですが、馬琴は志賀直哉にも『清兵衛と瓢箪』でからかわれています。
そういう中で良いと思ったのが海音寺潮五郎。トコトン惚れ込んだのが司馬遼太郎です。「神様仏様司馬様」。無神論者のオイラには神様仏様はいないからダントツで一位ですね。
「フザケタ事を言うな、山岡は素晴らしい」。当然こういう反論も有りますな、そうですよ。そういう主観が大切なのです。
学生時代に、杵屋正邦の「尺八四重奏曲」をやりましたが、船川利夫の大の信奉者だった永瀬憲治さんに言われました。「この曲のバカらしさに気がつかないと現代邦楽は広汎な支持を得られないだろう」。私は同感です。
ですが、当時は人気曲で三本会などプロでもやっていました。1971年の青木鈴慕リサイタルでは、当時の名だたる尺八吹き12人による同曲の演奏まで有ったくらいです。
当時は現代邦楽の揺籃期で、杵屋正邦は人気作曲家でした。「風動」なんか良いですよね。でも私は2年生の時にクラブ内の発表会で「流露」を吹いて、先輩から「背伸びしている」と言われましたが、五線譜を読める者には何ら難しいと感じる曲ではありません。むしろ幼稚なくらいです。
構造分析、数学的解析、数値化できるモノにおける正確さ、哲学的境地の高さ、そういった事はいくらでも論じられると思うんですよ。でもねえ・・・。
例えば村田英雄、音程はヒドイけど良いでしょう。音程の良いクラシックの人が演歌を歌うと何処か変だと思った経験ってありませんか。
35年前、ある外国人ピアニストの後援会というかファンクラブというか、そういうモノに入っていました。その会合で話されていた、時には感情的になった話など、邦楽畑の私には羨ましかったですね。
「ホロビッツのピアノには嘘が有る」、「いい加減な事を言うな。彼は素晴らしい」。こういった議論を大のオトナが、それもピアノに一家言を持つ者同士が延々と繰り広げるのです。未熟者の意地ズクや「反対の為の反対」ではないんです。
振り返って邦楽界ですと、若い時、まだ喰えなかった時は皆が熱心に語り合いましたが、その時からの感想です。もっとあらゆる角度からの批評を皆がして、良い悪いの主観をぶつけ合っていれば、邦楽の演奏会はこんなにもツマラナイモノにはなっていなかったと思います。
人との主観上の感想の衝突を怖れて芸術産業で生きていけるかい。未来と勝負できんのかよ。そういった点で三塚泉州さん、貴方は素晴らしい。敬服しています。
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