禅カルチャー
- 2016/03/09
- 17:52
欧米やイスラム世界では、現地の人に宗教を問われて「私は無神論者です」とは絶対に言うなと聞いています。ですから私も自分から無神論者だと言う事は有りません。益も無いことを口走って無用のトラブルを起こしたくないですわ。
でも、このキリスト教徒やイスラム教徒の心理面が良く分かりません。私達は文学部出身なので、そういう事を知りたい時には、その国の小説を読んでいます。日本でも千年前の貴族階級の心理は知ることが出来ますな。『源氏物語』をはじめととする平安時代に書かれた小説や日記を読めば良いのです。
ところが、欧米のこの宗教心というものは、いくら読んでもピンときません。イスラムの場合には、薄学にして読む本の見当がつかないので言及は保留します。
神が実在として存在してると信じている人は、彼らの中でも少数派です。でも「神を信じる」という事が極めて大切であると多くの人が思っている、その心の微妙な襞が分からないと言ってるんです。
彼らの中の多くは仏教徒とかも「無神論者」の範疇に入れています。一神教で「啓示宗教」でないと信仰とは認めていないようです。でも「仏教を信じている」と言うのは良いみたいですね。
仏教徒ですらない私ですから、彼らが日本人の宗教をどう見ていようと別に構いませんが、私も首を捻る事が有ります。儒教は誰でも宗教とは思っていないと思いますが、禅って宗教なのでしょうか?
禅宗では無くて、そもそもの禅です。
禅という中国語は本来「静か」とか「静寂」とかいう意味らしいのです。達磨が禅を中国に伝える三百年前に生きた蜀の後主・劉禅はナルホド三国志の中で存在感が無く「静か」です。孔明に「読んで泣かぬ者は人間ではない」とまで言われる『出師の表』を奉られても泣いた様子も有りませんな。もっともオイラもそうだけど・・・。
これが日本に入ってきたのは平安時代初期で意外に早かったのですが、鎌倉時代に広がり、室町以降は日本人の精神や文化をほぼ支配しました。
はっきり言って多くの人は「禅て何?」と聞かれると「さあ、座禅する仏教でしょう」と言うくらいなものだと思います。ですが心の深い所や価値観の本質に近いところで禅の影響を強く受けています。
この禅って神や仏の、象徴としてではなくて、実在としての存在を信じてはいないのではないですかね。少なくとも「どっちでも良いこと」なのでは・・・。
尺八音楽は、その昔、とは言ってもそんな昔ではなく、ほんの30年くらい前には「ゼンミュージック」とかアメリカ人に思われていました。その頃までは、尺八を吹く外国人というと大体アメリカ人でしたから、他の民族にどう思われていたかは分かりません。たぶんマルっきり知らなかったと思います。
私は尺八を吹いていた時、それが禅だと思ったことなど有りません。まあ私も日本人ですから意識しない深い部分で禅の影響を受けていることは間違いないでしょう。でも、それを以って「ゼンミュージック」と言うのは飛躍だという気がします。
当時は、この禅を持ち出されるとトボケました。虚無僧は禅宗の一派「普化宗」を自称していましたが、それは便宜上のもので、彼等自身ですら本気にしてはいなかったのでは・・・。だって座禅てしてたんですか?『臨済録』や『典座教訓』から都合の良い語句を探して言いくるめる事はできますよ。でもねえ・・・。
もうトボケきれません。現在の尺八は外国人が続々と参入してきています。日本趣味の人ばかりではなく、尺八をただ優秀で個性的な笛と考えて吹いている人も増えましたが、昔とは比較にならない高度な文化論をブツケテくる人もいます。「日本研究」で来ている学者や留学生達、あるいは外国にいて日本文化を研究している人達。こういった人達に尺八と共に日本文化を伝えるには、「私は無神論者ですから禅も分かりません」でいつまでもは通りませんでしょう。
でも、このキリスト教徒やイスラム教徒の心理面が良く分かりません。私達は文学部出身なので、そういう事を知りたい時には、その国の小説を読んでいます。日本でも千年前の貴族階級の心理は知ることが出来ますな。『源氏物語』をはじめととする平安時代に書かれた小説や日記を読めば良いのです。
ところが、欧米のこの宗教心というものは、いくら読んでもピンときません。イスラムの場合には、薄学にして読む本の見当がつかないので言及は保留します。
神が実在として存在してると信じている人は、彼らの中でも少数派です。でも「神を信じる」という事が極めて大切であると多くの人が思っている、その心の微妙な襞が分からないと言ってるんです。
彼らの中の多くは仏教徒とかも「無神論者」の範疇に入れています。一神教で「啓示宗教」でないと信仰とは認めていないようです。でも「仏教を信じている」と言うのは良いみたいですね。
仏教徒ですらない私ですから、彼らが日本人の宗教をどう見ていようと別に構いませんが、私も首を捻る事が有ります。儒教は誰でも宗教とは思っていないと思いますが、禅って宗教なのでしょうか?
禅宗では無くて、そもそもの禅です。
禅という中国語は本来「静か」とか「静寂」とかいう意味らしいのです。達磨が禅を中国に伝える三百年前に生きた蜀の後主・劉禅はナルホド三国志の中で存在感が無く「静か」です。孔明に「読んで泣かぬ者は人間ではない」とまで言われる『出師の表』を奉られても泣いた様子も有りませんな。もっともオイラもそうだけど・・・。
これが日本に入ってきたのは平安時代初期で意外に早かったのですが、鎌倉時代に広がり、室町以降は日本人の精神や文化をほぼ支配しました。
はっきり言って多くの人は「禅て何?」と聞かれると「さあ、座禅する仏教でしょう」と言うくらいなものだと思います。ですが心の深い所や価値観の本質に近いところで禅の影響を強く受けています。
この禅って神や仏の、象徴としてではなくて、実在としての存在を信じてはいないのではないですかね。少なくとも「どっちでも良いこと」なのでは・・・。
尺八音楽は、その昔、とは言ってもそんな昔ではなく、ほんの30年くらい前には「ゼンミュージック」とかアメリカ人に思われていました。その頃までは、尺八を吹く外国人というと大体アメリカ人でしたから、他の民族にどう思われていたかは分かりません。たぶんマルっきり知らなかったと思います。
私は尺八を吹いていた時、それが禅だと思ったことなど有りません。まあ私も日本人ですから意識しない深い部分で禅の影響を受けていることは間違いないでしょう。でも、それを以って「ゼンミュージック」と言うのは飛躍だという気がします。
当時は、この禅を持ち出されるとトボケました。虚無僧は禅宗の一派「普化宗」を自称していましたが、それは便宜上のもので、彼等自身ですら本気にしてはいなかったのでは・・・。だって座禅てしてたんですか?『臨済録』や『典座教訓』から都合の良い語句を探して言いくるめる事はできますよ。でもねえ・・・。
もうトボケきれません。現在の尺八は外国人が続々と参入してきています。日本趣味の人ばかりではなく、尺八をただ優秀で個性的な笛と考えて吹いている人も増えましたが、昔とは比較にならない高度な文化論をブツケテくる人もいます。「日本研究」で来ている学者や留学生達、あるいは外国にいて日本文化を研究している人達。こういった人達に尺八と共に日本文化を伝えるには、「私は無神論者ですから禅も分かりません」でいつまでもは通りませんでしょう。
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