鏡の国
- 2016/03/19
- 21:43
『不思議の国のアリス』は読んだことのある人は多いでしょう。私の子供の頃は東横劇場でプロ劇団が公演をやっていました。私も小学5年の時、ここに出たことが有るんですよ。アリスを裁く法廷の場です。劇ですから、ハートのジャックとアリスの立場が入れ替わっていました。そこで陪審員の役で出たんですよ。人並み外れた可愛らしさが評価されたのでしょうか?
まあ、それはどうでも良いことです。ところで、この続編『鏡の国のアリス』ですが、読んだ人も映画や劇で見た人もグッと少なくなるのではないですかね。
鏡の国の中ではチェスのルールでしか進めないことになっていますが、読んでもチットモ分かりません。オイラはチェスも強いんですよ。中に入りこんだら「物の名を忘れる森」でなくたって進路が全く見当がつかなくなります。
鏡という物は今の人にとって不思議でも何でもないですが、原理の分からなかった昔は神秘的な物だったでしょう。鏡が発明される前は、自分の顔を見る事って出来なかったんです。セイゼイが水に映して見るくらいです。
自分の声も同じですね。骨を振動させて伝わる音の方が大きいので、録音が発明される前は自分の声は本人にだけは分からなかったのです。
尺八の音も初めて録音すると「これホントに自分の尺八の音か?」ってなりますね。声よりは外気振動を聞くことが出来ますから、その前でも少しは見当がつきます。
自分の姿だけが見えない聞こえない・・・。こりゃ「鏡の中の世界」だわ。
鏡は禅では「見えてはいるが実体は無い」たとえに、よく使われます。「鏡に映った月には実体が無い。その証拠に鏡を移動すれば何も見えなくなる」とか。ホー、(感心してちゃイケマセンや)。
「もともと鏡そのものも無いのだから、埃を払おうにも無い」。六祖恵能の有名な言葉です。こういう禅の「問答」ってアリスの迷い込んだ「鏡の国」で交わされる会話とソックリですね。
尺八の演奏ってアリスの紛れ込んだ「鏡の国」と似ていると思いませんか?ただし進行を指示する地図だけは有ります。古典や新曲はサスガにワンパターンでも吹けますが、昔の年寄は現代邦楽を「何が何だか分からない」と言って演奏する事を嫌がりました。譜面を地図にして、ともかく無我夢中で最後まで進みますが、途中の景色は目の横を通りすぎるだけです。
ルールを知らないから?。いいえ、覚える気が無いからです。もっとも当時の現代邦楽は時間の淘汰の前でしたからね、若い人にも分からない曲が多すぎた事も事実でした。
まあ、それはどうでも良いことです。ところで、この続編『鏡の国のアリス』ですが、読んだ人も映画や劇で見た人もグッと少なくなるのではないですかね。
鏡の国の中ではチェスのルールでしか進めないことになっていますが、読んでもチットモ分かりません。オイラはチェスも強いんですよ。中に入りこんだら「物の名を忘れる森」でなくたって進路が全く見当がつかなくなります。
鏡という物は今の人にとって不思議でも何でもないですが、原理の分からなかった昔は神秘的な物だったでしょう。鏡が発明される前は、自分の顔を見る事って出来なかったんです。セイゼイが水に映して見るくらいです。
自分の声も同じですね。骨を振動させて伝わる音の方が大きいので、録音が発明される前は自分の声は本人にだけは分からなかったのです。
尺八の音も初めて録音すると「これホントに自分の尺八の音か?」ってなりますね。声よりは外気振動を聞くことが出来ますから、その前でも少しは見当がつきます。
自分の姿だけが見えない聞こえない・・・。こりゃ「鏡の中の世界」だわ。
鏡は禅では「見えてはいるが実体は無い」たとえに、よく使われます。「鏡に映った月には実体が無い。その証拠に鏡を移動すれば何も見えなくなる」とか。ホー、(感心してちゃイケマセンや)。
「もともと鏡そのものも無いのだから、埃を払おうにも無い」。六祖恵能の有名な言葉です。こういう禅の「問答」ってアリスの迷い込んだ「鏡の国」で交わされる会話とソックリですね。
尺八の演奏ってアリスの紛れ込んだ「鏡の国」と似ていると思いませんか?ただし進行を指示する地図だけは有ります。古典や新曲はサスガにワンパターンでも吹けますが、昔の年寄は現代邦楽を「何が何だか分からない」と言って演奏する事を嫌がりました。譜面を地図にして、ともかく無我夢中で最後まで進みますが、途中の景色は目の横を通りすぎるだけです。
ルールを知らないから?。いいえ、覚える気が無いからです。もっとも当時の現代邦楽は時間の淘汰の前でしたからね、若い人にも分からない曲が多すぎた事も事実でした。
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