お宝鑑定
- 2016/04/03
- 21:57
テレビで『お宝鑑定団』という番組が有ります。私はテレビは見ないのですが、例外的に好きなモノとして、1位は『路線バスの旅』。1年に3回くらいの放映ですが、かなりガチの要素が強く、『水戸黄門』以上に「いったい最後はどうなるのだろう」と結末をハラハラしながら見ています。
後は夜10時からのニュース番組。目の横で見ながら、このブログを書くのが日課です。『お宝鑑定団』は、その次くらいですかね。
『水戸黄門』は私くらいの通になると、出てくる人間を初めに見ただけで、その人間が善人か悪人か分かります。それと言うのも、若い時に10年くらい毎週欠かさず見ていたからで、私のささやかな自慢です。
さて、この『お宝鑑定団』ですが、私が全く分からないのが書です。言っときますが、私の母親は日本習字学会の理事でしたし、私と言えば、その母よりも書家としては上なんですよ。その証拠に私の書いた字は誰でも読めますもの・・・。
でも絵や焼き物は7,8割の確率で真贋が当たります。それで鼻高々でいましたところ、友人でやはり見ている者に言われました。見ていれば誰でも、その程度の割合では当たるんだそうで、その2,3割にすぎないハズレの部分にこそ素人と玄人の差が有ると言います。
前に、私に尺八の鑑定を依頼してきた鎌倉の骨董屋のオヤジから、この番組の内幕を聞かされましたが、タブンに予想のつくものでした。
誰だって、ブッツケ本番で出てきた「お宝」を、その場で鑑定しているとは思いませんが、高額が予想される品の鑑定は、勘、知識、感覚、科学鑑定等の総合力です。
この番組には素人の骨董ファンが出てきて自信満々でウンチクを並べ、それで顔に二つ付いている物が節穴だったと暴かれて赤っ恥をかくというのが、見所の一つになっています。
何故ですかね。本や美術館で大量の知識や審美眼を養っていても、どうして半可通の段階を脱却できないんでしょうか?本やガラス越の鑑賞など「ショセンは畳水練だ」と言う意見が有りますが、そうなんでしょうかね。
ここで尺八の鑑定に話を移しますが、プロの製管師なら誰もが竹の良し悪し、尺八の細工の巧拙は分かりますが、その「分かる」の深度で、その人の地位が決まると言えます。楽器としての判定力は、これはプロ吹奏家の方が上だと思いますが、この尺八の「物」としての部分は、プロ吹奏家は意外に分かっていません。特にウンチク知識面では、必要無いせいも有りましょうが、素人とかわりません。
私の工房には頻繁に尺八が修理や鑑定で持ち込まれますが、その都度、息子や甥に見せて学習させます。この前、一本の尺八が適当な教材だったので見せて感想を求めました。
「この尺八、どこが悪いか言ってごらん」。甥も息子も「分からない」と首を捻ります。そこで正解を出しました。「そうだよ、どこも悪い所は無い。全部がプロとしての条件をクリアしている」。
だけど全てがB級なのです。その製管師はプロとしては既に終わっている人ですが、その理由、全てが二流の技量なのに見る目が甘く、価格は一流製管師並のレベルに設定しているのです。
肝心の残りの2,3割が見えない人だったのです。たしかに、素人に毛の生えた程度の技量の人が驚くほどの高額で尺八を売っていた時代が有りましたが、市場が半閉鎖の状態だった琴古や相対的に市場の狭かった上田、あるいは、ほとんど情報が無かった民謡など、特殊な条件が有ってはじめて成立していたことにすぎません。
新しく人が入って来ていない今の尺八状況では、このての自分が正確に見えていない製管師は自分の周辺地域にいる尺八家に売ってしまうとオシマイです。
自分の人間関係の及ばない広い世界では、誰かの市場をガチで食わなければならないのに、その競争力が無いですもんね・・・。
後は夜10時からのニュース番組。目の横で見ながら、このブログを書くのが日課です。『お宝鑑定団』は、その次くらいですかね。
『水戸黄門』は私くらいの通になると、出てくる人間を初めに見ただけで、その人間が善人か悪人か分かります。それと言うのも、若い時に10年くらい毎週欠かさず見ていたからで、私のささやかな自慢です。
さて、この『お宝鑑定団』ですが、私が全く分からないのが書です。言っときますが、私の母親は日本習字学会の理事でしたし、私と言えば、その母よりも書家としては上なんですよ。その証拠に私の書いた字は誰でも読めますもの・・・。
でも絵や焼き物は7,8割の確率で真贋が当たります。それで鼻高々でいましたところ、友人でやはり見ている者に言われました。見ていれば誰でも、その程度の割合では当たるんだそうで、その2,3割にすぎないハズレの部分にこそ素人と玄人の差が有ると言います。
前に、私に尺八の鑑定を依頼してきた鎌倉の骨董屋のオヤジから、この番組の内幕を聞かされましたが、タブンに予想のつくものでした。
誰だって、ブッツケ本番で出てきた「お宝」を、その場で鑑定しているとは思いませんが、高額が予想される品の鑑定は、勘、知識、感覚、科学鑑定等の総合力です。
この番組には素人の骨董ファンが出てきて自信満々でウンチクを並べ、それで顔に二つ付いている物が節穴だったと暴かれて赤っ恥をかくというのが、見所の一つになっています。
何故ですかね。本や美術館で大量の知識や審美眼を養っていても、どうして半可通の段階を脱却できないんでしょうか?本やガラス越の鑑賞など「ショセンは畳水練だ」と言う意見が有りますが、そうなんでしょうかね。
ここで尺八の鑑定に話を移しますが、プロの製管師なら誰もが竹の良し悪し、尺八の細工の巧拙は分かりますが、その「分かる」の深度で、その人の地位が決まると言えます。楽器としての判定力は、これはプロ吹奏家の方が上だと思いますが、この尺八の「物」としての部分は、プロ吹奏家は意外に分かっていません。特にウンチク知識面では、必要無いせいも有りましょうが、素人とかわりません。
私の工房には頻繁に尺八が修理や鑑定で持ち込まれますが、その都度、息子や甥に見せて学習させます。この前、一本の尺八が適当な教材だったので見せて感想を求めました。
「この尺八、どこが悪いか言ってごらん」。甥も息子も「分からない」と首を捻ります。そこで正解を出しました。「そうだよ、どこも悪い所は無い。全部がプロとしての条件をクリアしている」。
だけど全てがB級なのです。その製管師はプロとしては既に終わっている人ですが、その理由、全てが二流の技量なのに見る目が甘く、価格は一流製管師並のレベルに設定しているのです。
肝心の残りの2,3割が見えない人だったのです。たしかに、素人に毛の生えた程度の技量の人が驚くほどの高額で尺八を売っていた時代が有りましたが、市場が半閉鎖の状態だった琴古や相対的に市場の狭かった上田、あるいは、ほとんど情報が無かった民謡など、特殊な条件が有ってはじめて成立していたことにすぎません。
新しく人が入って来ていない今の尺八状況では、このての自分が正確に見えていない製管師は自分の周辺地域にいる尺八家に売ってしまうとオシマイです。
自分の人間関係の及ばない広い世界では、誰かの市場をガチで食わなければならないのに、その競争力が無いですもんね・・・。
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