重奏
- 2016/04/05
- 23:07
日本歌謡曲が生んだ最高のデュエット、私はザ・ピーナッツと固く信じています。昭和30年代にして、あの完成度。今聴いてもしびれます。
歌うのも聞くのも好きなのは男女のデュエットでムード歌謡、良いですなあ。ロマンチストでナルシストの私にピッタリです。
ところで尺八の二重奏、あるいは三重奏でも四重奏でも良いですが、これだっていうの有りますか?「鹿の遠音」。ナルホド…、で、後ナニ、何ですか?
30年前から10年前まで、お弟子が来ていたころは、毎週月曜の夜は仕事をしないで稽古日に充てていました。一番多い時でも4人でしたから時間は大したことはないのですが、中には20年近く練習に来ていた人がいましたから、そのうち曲に困ってしまうのですよ。
それに古曲ばかり延々と「素吹き」で練習していると頭がテンパります。そういう時に二重奏曲は重宝でした。都山流本曲とか山本邦山作曲のものとか、私もサンザン吹きました。でも面白いと思ったものは有りません。
音楽の三要素、メロディ、リズム、ハーモニー。この内、ハーモニーは近代以前の日本には存在しませんでした。尺八でも初代都山が、この概念を持ち込みましたが、私の若いころは、その前にユニゾンすら合わせられないのが尺八界でしたが、それでも、この重奏の概念を尺八にもちこんだ都山の功績は多大です。
オクターブと4度5度の単純な三重奏でも吹く人に「合わせなければならない」という思いを認識させます。「そんなの当たり前だ」と今の人は思いますよね。ところが、その概念の無かった時代はそうではなかったのです。
少し前まで琴古の古い(体質が、ですよ)社中では、「音を合わせなければいけない」という当たり前の理屈が通じなかったのですよ。
また、尺八でもハーモニーを造る前提であれば、調律の狂いは明らかになります。製管師の現在の都山絶対優位は、決して都山の市場の大きさや、竹仙工房の出現にばかり帰せることではありません。
古曲でも「掛け合い」が存在している以上は、箏の、あるいは「替え手」が加わることを想定していた。この言は青木鈴慕先生がおしゃったことです。
ならば初期のハーモニーの知識は有ったと思います。それが本格的発展をしなかった。家屋の構造とか演奏形態も有るのでしょうが、これは、むしろ嘗ての日本人の好み、そこに話が行くんではないですかね。だって、料理とか絵画、輸出用でない陶磁器なんか見てもハーモニーの要素って感じますか?
歌うのも聞くのも好きなのは男女のデュエットでムード歌謡、良いですなあ。ロマンチストでナルシストの私にピッタリです。
ところで尺八の二重奏、あるいは三重奏でも四重奏でも良いですが、これだっていうの有りますか?「鹿の遠音」。ナルホド…、で、後ナニ、何ですか?
30年前から10年前まで、お弟子が来ていたころは、毎週月曜の夜は仕事をしないで稽古日に充てていました。一番多い時でも4人でしたから時間は大したことはないのですが、中には20年近く練習に来ていた人がいましたから、そのうち曲に困ってしまうのですよ。
それに古曲ばかり延々と「素吹き」で練習していると頭がテンパります。そういう時に二重奏曲は重宝でした。都山流本曲とか山本邦山作曲のものとか、私もサンザン吹きました。でも面白いと思ったものは有りません。
音楽の三要素、メロディ、リズム、ハーモニー。この内、ハーモニーは近代以前の日本には存在しませんでした。尺八でも初代都山が、この概念を持ち込みましたが、私の若いころは、その前にユニゾンすら合わせられないのが尺八界でしたが、それでも、この重奏の概念を尺八にもちこんだ都山の功績は多大です。
オクターブと4度5度の単純な三重奏でも吹く人に「合わせなければならない」という思いを認識させます。「そんなの当たり前だ」と今の人は思いますよね。ところが、その概念の無かった時代はそうではなかったのです。
少し前まで琴古の古い(体質が、ですよ)社中では、「音を合わせなければいけない」という当たり前の理屈が通じなかったのですよ。
また、尺八でもハーモニーを造る前提であれば、調律の狂いは明らかになります。製管師の現在の都山絶対優位は、決して都山の市場の大きさや、竹仙工房の出現にばかり帰せることではありません。
古曲でも「掛け合い」が存在している以上は、箏の、あるいは「替え手」が加わることを想定していた。この言は青木鈴慕先生がおしゃったことです。
ならば初期のハーモニーの知識は有ったと思います。それが本格的発展をしなかった。家屋の構造とか演奏形態も有るのでしょうが、これは、むしろ嘗ての日本人の好み、そこに話が行くんではないですかね。だって、料理とか絵画、輸出用でない陶磁器なんか見てもハーモニーの要素って感じますか?
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