ドル相場
- 2014/11/19
- 17:52
私の若い頃、1米ドルは360円でした。これは戦後の改定の時に「円は360度だから」という嘘のような理由で決まったそうです。その頃、アメリカ旅行をした人達は「1ドル360円と言っても本当は100円くらいの使い勝手しかない」とアメリカの物価の高さを歎いたものです。
その前にドルは貴重で、自由に円と交換したり出来ません。1964年から一般人でも海外旅行が出来る様になりましたが、持っていけるのは500ドルだけ。それでは到底足らないと思う人は闇ドルを買いました。私の知っているのは横浜の店で、昭和42年に1ドル400円で買えました。
その頃、日本プロレスはNWAの世界チャンピオンジン・キニスキーを1週間8000ドルという桁外れのギャラを提示して日本に呼びましたが、並のアメリカ人レスラー15人分のドルを工面するため闇ドルを使ったと聞いています。その二年後に、やはりNWA世界チャンピオン・ドリー・ファンク・Jrを呼びましたが、1週間10500ドルと言われるギャラを今度はまともな手段で払ったそうですから、この間にドル緩和が有ったのでしょう。
1971年にスミソニアン合意で1ドル308円となったものの、すぐ維持出来なくなりキングストン合意をへて変動相場となりました。
しばらくの間、1977年に1ドル170円台というような変動は有ったものの大体240円くらいで推移していました。
1985年、サンフランシスコの写楽という店から尺八購入の依頼が有り、1本2万4千円で合意しました。1本約100ドルなので私は「100ドル尺八」と呼びました。 「1本2万4千円なら幾らでも買うからドンドン送って欲しい」と言われましたが、幾らも送らないうちに1985年9月のプラザ合意が有り、ドルは大暴落、たちまち半値になってしまいました。
惜しいことをしたろう?って。 別に。その時代は日本でも私のところは売れて売れて・・・。 いくら人を殖やしたところで注文と追っかけっこ、とてもアメリカにまで手がまわらない状況でしたもの、惜しいと思うより、その時は、むしろホッとしたことを憶えています。
わざわざアメリカから尺八を買付にいらした女性に敬意を表して、そして明日からの仕事は基本的に白紙という「日雇い」なみの尺八屋にとって「何本でも良いから継続して送って欲しい」と言う申し出に眼がく眩んで、1本2万4千円を受け入れましたが、やはり、キツイのは事実でした。
その前にドルは貴重で、自由に円と交換したり出来ません。1964年から一般人でも海外旅行が出来る様になりましたが、持っていけるのは500ドルだけ。それでは到底足らないと思う人は闇ドルを買いました。私の知っているのは横浜の店で、昭和42年に1ドル400円で買えました。
その頃、日本プロレスはNWAの世界チャンピオンジン・キニスキーを1週間8000ドルという桁外れのギャラを提示して日本に呼びましたが、並のアメリカ人レスラー15人分のドルを工面するため闇ドルを使ったと聞いています。その二年後に、やはりNWA世界チャンピオン・ドリー・ファンク・Jrを呼びましたが、1週間10500ドルと言われるギャラを今度はまともな手段で払ったそうですから、この間にドル緩和が有ったのでしょう。
1971年にスミソニアン合意で1ドル308円となったものの、すぐ維持出来なくなりキングストン合意をへて変動相場となりました。
しばらくの間、1977年に1ドル170円台というような変動は有ったものの大体240円くらいで推移していました。
1985年、サンフランシスコの写楽という店から尺八購入の依頼が有り、1本2万4千円で合意しました。1本約100ドルなので私は「100ドル尺八」と呼びました。 「1本2万4千円なら幾らでも買うからドンドン送って欲しい」と言われましたが、幾らも送らないうちに1985年9月のプラザ合意が有り、ドルは大暴落、たちまち半値になってしまいました。
惜しいことをしたろう?って。 別に。その時代は日本でも私のところは売れて売れて・・・。 いくら人を殖やしたところで注文と追っかけっこ、とてもアメリカにまで手がまわらない状況でしたもの、惜しいと思うより、その時は、むしろホッとしたことを憶えています。
わざわざアメリカから尺八を買付にいらした女性に敬意を表して、そして明日からの仕事は基本的に白紙という「日雇い」なみの尺八屋にとって「何本でも良いから継続して送って欲しい」と言う申し出に眼がく眩んで、1本2万4千円を受け入れましたが、やはり、キツイのは事実でした。
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