犬の記憶
- 2016/04/20
- 15:29
私が幼稚園に入る前、家には白い大きな犬がいました。その犬には淡い記憶しか有りませんが、私とツーショットしている昭和28年頃に写した白黒写真が残っておりまして、3歳の私より大きくて、社会的地位も上に見えます。
その犬が死んだ時の記憶は有りません。家で死んだのは確かですが、いつの間にかいなくなったという感じです。
それから小学校5年くらいまでは常に家には犬が複数いました。その頃は、放し飼いが普通でしたから、散歩の必要は無いし、毛梳き、歯磨き、入浴、まして予防接種や避妊手術なんてしたことが有りません。だいいち獣医なんて街にいませんでしたよ。
ですから、「飼う」と言うより餌を与えていただけ。言わば一緒にいただけです。なので、通算で20匹位いましたが、どの犬も長生きしませんでしたね。ほとんどが野良犬で何時の間にか私の家に来て、そのまま居ついて、何時の間にか死んでいきました。餌だって残飯に味噌汁をかけた程度ですから、長生きするわけがありませんや。
昭和も37年頃になると、さすがにもう東京の田舎とはいえ二子玉川でも放し飼いは出来なくなりました。「忠犬八公」とか有りますから、戦前は渋谷でも放し飼いにしていたわけですな。それが、このころになって、「戦後世界」がようやく根付いてきたのです。
そうなると、うろついている野良犬は街からいなくなり、代わって子犬の捨てられているのが目立つようになりました。当時は避妊なんてしなかったですもんね。捨てられている子犬を見るのは精神衛生上きわめて良くなかったです。飼ってくれる人なんて、面倒になってからは、おいそれとは見つかりませんよ。
かと言って、鎖につないで飼う、鑑札もいる、予防接種も必要なのでは、もう私の家でも駄目でした。
飼い主に棄てられた犬ほどみじめなものは無いですね。猫と違って、今は犬の場合は街をうろついている事など無いので、速やかに処置されてしまいますが、それでも昔の日本だと、世の中がいい加減だったので、何とか生きるすべも有ったように思います。
街から野良犬が消えると共に、様々な商売が街から消えてしまいました。
店が無く、家々を回っていた数々の仕事。鍋釜修理のイカケ屋、傘直し、生薬屋、荒神除けのお札売り、陶磁器の割れ修理などなど。こういった仕事はいずれも客との世間話とがセットになっています。
私の会社の特徴、「客と話込む」は、この雰囲気です。つまりは、懐かしい昔のドサ仕事です。もう一段ランクが下がるクズ屋までは商売と受け入れられましたが、「押し売り」まで落ちると世間からは野良犬の扱いを受けました。
「客と世間話をするのは営業ならどの商売も一緒だ」と言う人がいますがね。営業の枕としての世間話と私の店の話は根本が違うのです。商売につながらない世間話こそ尺八屋である私の本分です。
話は変わりますが、犬はどうして人間に飼われるのでしょう?今にいたって「癒される」とか「長い友達」とか言いますが、昔はそういう感じではないです。小汚い野良犬や性根の荒んだバカ犬に「癒され」たり「友情を感じ」たり出来たと思います?。
チョットの親切心、同情心、居ても良いや役には立たないけど。そういった気持ちが大きかったような気がします。尺八が同じだと言うのではモチロンありませんが、全く違うとも思っていませんよ。
尺八の時代や大衆に見放された境遇は自業自得とばかりは言えませんが、ともかく境遇の改善には、自力で「癒される長い友達」になるしかないでしょう。
その犬が死んだ時の記憶は有りません。家で死んだのは確かですが、いつの間にかいなくなったという感じです。
それから小学校5年くらいまでは常に家には犬が複数いました。その頃は、放し飼いが普通でしたから、散歩の必要は無いし、毛梳き、歯磨き、入浴、まして予防接種や避妊手術なんてしたことが有りません。だいいち獣医なんて街にいませんでしたよ。
ですから、「飼う」と言うより餌を与えていただけ。言わば一緒にいただけです。なので、通算で20匹位いましたが、どの犬も長生きしませんでしたね。ほとんどが野良犬で何時の間にか私の家に来て、そのまま居ついて、何時の間にか死んでいきました。餌だって残飯に味噌汁をかけた程度ですから、長生きするわけがありませんや。
昭和も37年頃になると、さすがにもう東京の田舎とはいえ二子玉川でも放し飼いは出来なくなりました。「忠犬八公」とか有りますから、戦前は渋谷でも放し飼いにしていたわけですな。それが、このころになって、「戦後世界」がようやく根付いてきたのです。
そうなると、うろついている野良犬は街からいなくなり、代わって子犬の捨てられているのが目立つようになりました。当時は避妊なんてしなかったですもんね。捨てられている子犬を見るのは精神衛生上きわめて良くなかったです。飼ってくれる人なんて、面倒になってからは、おいそれとは見つかりませんよ。
かと言って、鎖につないで飼う、鑑札もいる、予防接種も必要なのでは、もう私の家でも駄目でした。
飼い主に棄てられた犬ほどみじめなものは無いですね。猫と違って、今は犬の場合は街をうろついている事など無いので、速やかに処置されてしまいますが、それでも昔の日本だと、世の中がいい加減だったので、何とか生きるすべも有ったように思います。
街から野良犬が消えると共に、様々な商売が街から消えてしまいました。
店が無く、家々を回っていた数々の仕事。鍋釜修理のイカケ屋、傘直し、生薬屋、荒神除けのお札売り、陶磁器の割れ修理などなど。こういった仕事はいずれも客との世間話とがセットになっています。
私の会社の特徴、「客と話込む」は、この雰囲気です。つまりは、懐かしい昔のドサ仕事です。もう一段ランクが下がるクズ屋までは商売と受け入れられましたが、「押し売り」まで落ちると世間からは野良犬の扱いを受けました。
「客と世間話をするのは営業ならどの商売も一緒だ」と言う人がいますがね。営業の枕としての世間話と私の店の話は根本が違うのです。商売につながらない世間話こそ尺八屋である私の本分です。
話は変わりますが、犬はどうして人間に飼われるのでしょう?今にいたって「癒される」とか「長い友達」とか言いますが、昔はそういう感じではないです。小汚い野良犬や性根の荒んだバカ犬に「癒され」たり「友情を感じ」たり出来たと思います?。
チョットの親切心、同情心、居ても良いや役には立たないけど。そういった気持ちが大きかったような気がします。尺八が同じだと言うのではモチロンありませんが、全く違うとも思っていませんよ。
尺八の時代や大衆に見放された境遇は自業自得とばかりは言えませんが、ともかく境遇の改善には、自力で「癒される長い友達」になるしかないでしょう。
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