尺八の普及
- 2016/04/21
- 17:14
私は尺八を普及させたい、もっとハッキリ言うと、誰でもが(ここには小学生も入ります)、その気になれば遊び気分で始められる様にしたいと思って35年やってきました。
小学生が少し奮発して買うゲーム機が3万だとして、そう3万ですよ。尺八もその程度から出し続けています。
ほんの15年前くらいまでは「尺八を何故に普及させる必要が有るんだ?」と言う人もいました。今はいませんね。ここまで業界がオチブレテ、その弊害が目に見えていると流石に「尺八界が小さく縮んでも、自分は吹いて楽しんでいるだけだから関係無い」と言う人ばかりではなくなります。尺八の音は聞こえなくとも、「滅びの笛の音」は聞こえる人が増えました。
そうですよ、普及させなければ滅んでしまうからです。常識で考えたって分かるでしょう、もし尺八界が50年前の状態であったなら、今頃はもう無いですよ。とっくに「天然記念物の保護区」と化しています。尺八だって努力してきたんです。
ダイイチ、普及して何か悪い事って有りますか?
「有る。ウゾウムゾウが増えると正当な芸に混乱が起きる」。代表的な意見で、一つの見解として説得力も有ります。でも、ほっとけば消滅するんですよ。無くなるの。それで「正当」だの言っても始まらないと私は思うのですよ。
それに「正当」って伝統とか古典とイコールではありませんぜ。むしろ尺八に関して言うならば、伝統とか古典は、それをコケにする演奏や解釈のおかげで、むしろ「イカガワシイ」イメージの方が強いように思いますが・・・。
「正当」って、もし存在するとすれば、ソフトは関係無く、「真面目にやる」あるいは「真面目にやろうと努力する」姿勢ではないですかね。
前には勘違いなさっている方もいましたが、「大衆に分からない」、「ミ―チャンハーチャンに理解されない」ということは、妙なステータスを感じる様な事ではなく、「恥だと思え」とまでは言いませんが、少なくとも自慢するような事ではないんじゃないかしら。
「本物を聴かせれば必ず分かってもらえる」と昔から尺八家の本物も言ってきました。その甲斐あって一定の人間には分かってもらえました。でも、このテイタラクですよね。正確に言いかえると「本物を聴かせれば必ず分かる人もいる」でしょうが。
ではどうする、「何でも有り」で愛好者を増やして、広汎な領域をカバーして、そこから出て来る知恵に頼るしかねえと思いまっせ。
「そんなのイカン、ウチでは古典だけ」と言う師匠もいてもらわなければならないでしょう。そういう人を排除するのも「何でも有り」に反します。なんでも、どんなことでも自由勝手にやることが大切だと思います。
それで、後はガチで淘汰を受ければ良いんですよ。芸術のダイナミックな展開の為には、必ず前段階として「価値の混乱」が有りました。残ったモノ、それは評価されたモノですから、後の価値感が定着した時代から見ると、初めから確固たるモノに向かって、それだけを追及していたように見えますがね・・・。
もうこうなる、いや、なっている。だけど普及はしてないんです。ですから、私一代は創業者特権でこれで行きますわ。
小学生が少し奮発して買うゲーム機が3万だとして、そう3万ですよ。尺八もその程度から出し続けています。
ほんの15年前くらいまでは「尺八を何故に普及させる必要が有るんだ?」と言う人もいました。今はいませんね。ここまで業界がオチブレテ、その弊害が目に見えていると流石に「尺八界が小さく縮んでも、自分は吹いて楽しんでいるだけだから関係無い」と言う人ばかりではなくなります。尺八の音は聞こえなくとも、「滅びの笛の音」は聞こえる人が増えました。
そうですよ、普及させなければ滅んでしまうからです。常識で考えたって分かるでしょう、もし尺八界が50年前の状態であったなら、今頃はもう無いですよ。とっくに「天然記念物の保護区」と化しています。尺八だって努力してきたんです。
ダイイチ、普及して何か悪い事って有りますか?
「有る。ウゾウムゾウが増えると正当な芸に混乱が起きる」。代表的な意見で、一つの見解として説得力も有ります。でも、ほっとけば消滅するんですよ。無くなるの。それで「正当」だの言っても始まらないと私は思うのですよ。
それに「正当」って伝統とか古典とイコールではありませんぜ。むしろ尺八に関して言うならば、伝統とか古典は、それをコケにする演奏や解釈のおかげで、むしろ「イカガワシイ」イメージの方が強いように思いますが・・・。
「正当」って、もし存在するとすれば、ソフトは関係無く、「真面目にやる」あるいは「真面目にやろうと努力する」姿勢ではないですかね。
前には勘違いなさっている方もいましたが、「大衆に分からない」、「ミ―チャンハーチャンに理解されない」ということは、妙なステータスを感じる様な事ではなく、「恥だと思え」とまでは言いませんが、少なくとも自慢するような事ではないんじゃないかしら。
「本物を聴かせれば必ず分かってもらえる」と昔から尺八家の本物も言ってきました。その甲斐あって一定の人間には分かってもらえました。でも、このテイタラクですよね。正確に言いかえると「本物を聴かせれば必ず分かる人もいる」でしょうが。
ではどうする、「何でも有り」で愛好者を増やして、広汎な領域をカバーして、そこから出て来る知恵に頼るしかねえと思いまっせ。
「そんなのイカン、ウチでは古典だけ」と言う師匠もいてもらわなければならないでしょう。そういう人を排除するのも「何でも有り」に反します。なんでも、どんなことでも自由勝手にやることが大切だと思います。
それで、後はガチで淘汰を受ければ良いんですよ。芸術のダイナミックな展開の為には、必ず前段階として「価値の混乱」が有りました。残ったモノ、それは評価されたモノですから、後の価値感が定着した時代から見ると、初めから確固たるモノに向かって、それだけを追及していたように見えますがね・・・。
もうこうなる、いや、なっている。だけど普及はしてないんです。ですから、私一代は創業者特権でこれで行きますわ。
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