ウーマンパワー
- 2016/04/23
- 22:08
石川勾当って有名ですよね。もっとも邦楽の人達以外には無名だけど。
「石川勾当は女性だったのではないか?」、こう言ったのは青木鈴慕先生です。難易度が高い、大曲が多い、曲調が品格に満ちている。ナルホド。「八重衣」、「新青柳」、「融」とかそうですな。
けど、それがどうして女性だという事になるんですか? 「女性だから検校になれなかった意地みたいなものを感じないか?」。
曲からうける印象がそうだということですが、私みたいに鈍い者には分かりません。
そもそも明治以前の地歌箏曲で女性の作曲したものって有るんですか?これ本当に知らないから聞くんです。幾山検校の弟子の北村文。でも通常、「川千鳥」、「影法師」は幾山検校作曲ということになってます。
これって西洋でも一緒でしょう。何人かの女性作曲家はいるものの、彼女達は修道女で曲も一般には知られていません。
女性が参加出来なかった、この古典文化の世界において、燦然と輝くのが日本の女流文学です。
前に、山形大学の英文学教授で、同大学工学部の尺八部を指導していた斉藤眉山先生と、このテーマで話ました。西洋で女性が文壇に出て来るのは17世紀になってからですよね。
漱石の『三四郎』に出て来る『オルノーコ』のアフラ・ベーンとか、フランス得意の心理小説のはしり、『クレーブの奥方』のラファイエット夫人。
でも日本はどうです。平安朝。千年以上前に「女流文学」がジャンルとして存在したんですよ。世界の何処にも例が無いですよね。こう申し上げたら、斉藤先生「ホントにそうだなあ」と唸っていました。
女性の芸術って、そういう先入観が有るせいですかね。男が思いつかない心の襞が表れて、すごく魅力が有るのです。もし日本の古典から女流文学を除いたら、とても貧弱になると思うんです。
斉藤先生に「西洋文学で良いと思ったモノを10挙げるとすると、アナタの見解は?」と聞かれましたが、女性がナルホド半分です。
『嵐が丘』、『赤毛のアン』、『若草物語』、『少女パレアナ』、『レベッカ』。
「日本では昔から女性が文学をやっていた」と言うのを「他ではやらなかった」と言いかえるのは間違いだと思います。何処の国でも、ある程度やられていたと思います。
朝鮮でのキーセン達の数々のエピソードや、清の『紅楼夢』で登場するヒロイン達が、さかんに詞をやりとりしていますからね。宋の李清照は日本でも知られるようになりましたが、このように各時代時代にポツンと現れる存在でしかありません。
問題は日本ではジャンルにまでなった。諸外国では狭いサロンの中だけで留まり、男の社会に広まらなかった。男を巻き込む動きにならなかったということに有ります。
こういう事は、今でも有りますよね。プロスポーツなんかは今でもそうです。女プロレスはショーであって厳密な意味でプロスポーツかどうか判断が人によって違うけど、女性のボクサーはまだ珍しいし、女相撲は、はっきり「イロモノ」扱いです。
音楽の世界で尺八だけは長く女性の進出が無く、正確に言うと昔から花柳界などでは吹かれていたのですが、ジャンルまたはカテゴリーとして「女性尺八家」というものが無かったのですよ。
それがどうです。ここ30年の動き。25年前、20年前と年を追うごとに広まり、10年前には普通の事、今では「珍しい」とも思われません。
でもまだ「尺八界から女性がいなくなると貧弱になる」というまでの段階ではありません。
もう少し、もう少しです。
「女性に尺八は向かない、外国人に邦楽は分からない」と発言する人達が今ようやくいなくなりました。いても、これまで別段の実害は無かったですが、今は皆が「特別なこと」と思わないから、あえて言う人がいなくなったのです。
女性や外国人の尺八家がガチでやるとどれほど凄いか、4年前の「世界一コンクール」で「モロ見え」になりました。違った角度からの視線が持ちこまれていなかった、これまでの尺八がジャンルとして貧弱だったのは当然ですわな・・・。
「石川勾当は女性だったのではないか?」、こう言ったのは青木鈴慕先生です。難易度が高い、大曲が多い、曲調が品格に満ちている。ナルホド。「八重衣」、「新青柳」、「融」とかそうですな。
けど、それがどうして女性だという事になるんですか? 「女性だから検校になれなかった意地みたいなものを感じないか?」。
曲からうける印象がそうだということですが、私みたいに鈍い者には分かりません。
そもそも明治以前の地歌箏曲で女性の作曲したものって有るんですか?これ本当に知らないから聞くんです。幾山検校の弟子の北村文。でも通常、「川千鳥」、「影法師」は幾山検校作曲ということになってます。
これって西洋でも一緒でしょう。何人かの女性作曲家はいるものの、彼女達は修道女で曲も一般には知られていません。
女性が参加出来なかった、この古典文化の世界において、燦然と輝くのが日本の女流文学です。
前に、山形大学の英文学教授で、同大学工学部の尺八部を指導していた斉藤眉山先生と、このテーマで話ました。西洋で女性が文壇に出て来るのは17世紀になってからですよね。
漱石の『三四郎』に出て来る『オルノーコ』のアフラ・ベーンとか、フランス得意の心理小説のはしり、『クレーブの奥方』のラファイエット夫人。
でも日本はどうです。平安朝。千年以上前に「女流文学」がジャンルとして存在したんですよ。世界の何処にも例が無いですよね。こう申し上げたら、斉藤先生「ホントにそうだなあ」と唸っていました。
女性の芸術って、そういう先入観が有るせいですかね。男が思いつかない心の襞が表れて、すごく魅力が有るのです。もし日本の古典から女流文学を除いたら、とても貧弱になると思うんです。
斉藤先生に「西洋文学で良いと思ったモノを10挙げるとすると、アナタの見解は?」と聞かれましたが、女性がナルホド半分です。
『嵐が丘』、『赤毛のアン』、『若草物語』、『少女パレアナ』、『レベッカ』。
「日本では昔から女性が文学をやっていた」と言うのを「他ではやらなかった」と言いかえるのは間違いだと思います。何処の国でも、ある程度やられていたと思います。
朝鮮でのキーセン達の数々のエピソードや、清の『紅楼夢』で登場するヒロイン達が、さかんに詞をやりとりしていますからね。宋の李清照は日本でも知られるようになりましたが、このように各時代時代にポツンと現れる存在でしかありません。
問題は日本ではジャンルにまでなった。諸外国では狭いサロンの中だけで留まり、男の社会に広まらなかった。男を巻き込む動きにならなかったということに有ります。
こういう事は、今でも有りますよね。プロスポーツなんかは今でもそうです。女プロレスはショーであって厳密な意味でプロスポーツかどうか判断が人によって違うけど、女性のボクサーはまだ珍しいし、女相撲は、はっきり「イロモノ」扱いです。
音楽の世界で尺八だけは長く女性の進出が無く、正確に言うと昔から花柳界などでは吹かれていたのですが、ジャンルまたはカテゴリーとして「女性尺八家」というものが無かったのですよ。
それがどうです。ここ30年の動き。25年前、20年前と年を追うごとに広まり、10年前には普通の事、今では「珍しい」とも思われません。
でもまだ「尺八界から女性がいなくなると貧弱になる」というまでの段階ではありません。
もう少し、もう少しです。
「女性に尺八は向かない、外国人に邦楽は分からない」と発言する人達が今ようやくいなくなりました。いても、これまで別段の実害は無かったですが、今は皆が「特別なこと」と思わないから、あえて言う人がいなくなったのです。
女性や外国人の尺八家がガチでやるとどれほど凄いか、4年前の「世界一コンクール」で「モロ見え」になりました。違った角度からの視線が持ちこまれていなかった、これまでの尺八がジャンルとして貧弱だったのは当然ですわな・・・。
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