続 古代尺八
- 2016/04/26
- 21:34
尺八っていう言葉が初めて文献に登場するのは738年に成立した『大唐六典』だと一般には言われています。私も異論が有ると言うのではモチロンありません。でも「間違いない」と言うんでもありません。「どうでも良い」と思います。
そう言っては今回の話は進みませんので、まあ少しお付き合いのほどを・・・。
「尺八」という笛を呂才が作ったのは630年頃。でも、その記録は資料として唐の宮廷の奥深くにストックされます。この資料が日の目を見るのは三百年後です。
中国の伝統で、ひとつの王朝が滅びると、後継となった王朝が前の王朝の通史をつくります。その時に基本資料となるのが前の王朝の宮廷に保管されていた、この種のストック資料なのです。
この尺八製作に関する記述が『旧唐書』という「正史」、すなわち公認記録として世に出たのが五代十国時代、後晋の時です。
『大唐六典』はそれより二百年も早いですよね。
しかしながら日本には『游仙窟』という本が伝わっています。著者は張鷟です。唐を一時乗っ取った則天武后の時代の人気作家で、この『游仙窟』もダイタイ西暦700年前後に書かれたものと言われていますから、『大唐六典』より約30~40年早いです。
この日本にしか残っていなかった小説に「尺八」が出てきます。宴会の場面です。
雅楽の唐楽は宴会音楽だったと考えられています。五代十国時代の画家、顧閎中に「韓熙載夜宴図」という作品が有りますが、やはり宴会で尺八としか思えない笛を吹いている女性達が描かれています。
古代尺八は、日本では唐楽の楽器でした。唐楽は宴会音楽。ですから古代尺八は主として宴会音楽に使われていた楽器なのでしょう。
『游仙窟』は日本から行った遣唐使がかなり買って帰ったと思われます。この本は宴会マナーのテキストとして日本からの留学生に人気が有ったようです。初めて異国で諸外国の人達と交わる上での、宴会のマナーや進め方を教えてくれる貴重な参考書だったのです。
そこで使われていた尺八を遣唐使達が日本に持ちこまないはずがないでしょう。
何の為? 日本での宮廷または私的な宴会に使うためです。日本で外国人を宴会に招く事も、この時代には頻繁に有ったでしょうから。(西暦900年くらいから千年間は無かったですね。)
日本と唐の外交関係は、邪馬台国や「倭の五王」のように中国王朝の臣下となる為のもの、つまり主従関係ではありません。日本は主観的には「対等関係」と思っていました。その上に立って文化とか技術を学ぼうとしたのです。言わば明治時代の日本みたいなものです。
ですから、古代尺八も遣唐使が持ち帰って来た、そういうのが一番しっくりきますかね。唐の下賜品ではなく、街で買って唐から持ち帰った、それが妥当な線ではないですかね。
では何故に石製が有るのか?珍しいし、唐の高い技術の見本になりますからね。
15年ほど前、真鶴(まなずる)の石屋さんが石で作った尺八を私の店に持ちこんで来ましたが、それは全くの置物で楽器ではありませんでした。
でも石の古代尺八は楽器でもあるんです。まず石の塊を、水をかけながら砥石を弓で回転させて細長い穴を穿って、その後に外形細工をしたのでしょうが、穴をテーパーにするのは余程の技術だと思われます。先進国・唐の技術として遣唐使の目を引いたのでしょうか・・・。
そう言っては今回の話は進みませんので、まあ少しお付き合いのほどを・・・。
「尺八」という笛を呂才が作ったのは630年頃。でも、その記録は資料として唐の宮廷の奥深くにストックされます。この資料が日の目を見るのは三百年後です。
中国の伝統で、ひとつの王朝が滅びると、後継となった王朝が前の王朝の通史をつくります。その時に基本資料となるのが前の王朝の宮廷に保管されていた、この種のストック資料なのです。
この尺八製作に関する記述が『旧唐書』という「正史」、すなわち公認記録として世に出たのが五代十国時代、後晋の時です。
『大唐六典』はそれより二百年も早いですよね。
しかしながら日本には『游仙窟』という本が伝わっています。著者は張鷟です。唐を一時乗っ取った則天武后の時代の人気作家で、この『游仙窟』もダイタイ西暦700年前後に書かれたものと言われていますから、『大唐六典』より約30~40年早いです。
この日本にしか残っていなかった小説に「尺八」が出てきます。宴会の場面です。
雅楽の唐楽は宴会音楽だったと考えられています。五代十国時代の画家、顧閎中に「韓熙載夜宴図」という作品が有りますが、やはり宴会で尺八としか思えない笛を吹いている女性達が描かれています。
古代尺八は、日本では唐楽の楽器でした。唐楽は宴会音楽。ですから古代尺八は主として宴会音楽に使われていた楽器なのでしょう。
『游仙窟』は日本から行った遣唐使がかなり買って帰ったと思われます。この本は宴会マナーのテキストとして日本からの留学生に人気が有ったようです。初めて異国で諸外国の人達と交わる上での、宴会のマナーや進め方を教えてくれる貴重な参考書だったのです。
そこで使われていた尺八を遣唐使達が日本に持ちこまないはずがないでしょう。
何の為? 日本での宮廷または私的な宴会に使うためです。日本で外国人を宴会に招く事も、この時代には頻繁に有ったでしょうから。(西暦900年くらいから千年間は無かったですね。)
日本と唐の外交関係は、邪馬台国や「倭の五王」のように中国王朝の臣下となる為のもの、つまり主従関係ではありません。日本は主観的には「対等関係」と思っていました。その上に立って文化とか技術を学ぼうとしたのです。言わば明治時代の日本みたいなものです。
ですから、古代尺八も遣唐使が持ち帰って来た、そういうのが一番しっくりきますかね。唐の下賜品ではなく、街で買って唐から持ち帰った、それが妥当な線ではないですかね。
では何故に石製が有るのか?珍しいし、唐の高い技術の見本になりますからね。
15年ほど前、真鶴(まなずる)の石屋さんが石で作った尺八を私の店に持ちこんで来ましたが、それは全くの置物で楽器ではありませんでした。
でも石の古代尺八は楽器でもあるんです。まず石の塊を、水をかけながら砥石を弓で回転させて細長い穴を穿って、その後に外形細工をしたのでしょうが、穴をテーパーにするのは余程の技術だと思われます。先進国・唐の技術として遣唐使の目を引いたのでしょうか・・・。
スポンサーサイト