坂田先生の思い出
- 2016/05/04
- 23:12
昔、法政大学三曲会には師匠がいなかった。1967年に琴古が分離し、それと同時に琴古のついていた納富寿童もウチと縁が切れました。都山や箏にはもともと師匠はいませんでしたので、部員で高校までにやっていた者が教えていました。箏に関して言えば、昔は子供時代からやっていた者が今よりズット多くいました。
寿童先生はもうすでに人間国宝でしたので、実際の指導は御子息の治彦さんがすることが多く、その将来を嘱望されていた治彦さんも私が大学に入った1969年に37歳という若さで急逝なさってしまいました。
糸方と都山の尺八が残ったウチの三曲会は、師匠の必要を痛感していました。何しろ師匠につかなかったのですから、都山の技術低下は著しく、私の1年の時の4年生は夏合宿までしかいませんでしたが、少年期から尺八を吹いていた岡さんを除いて、4年になっても中伝曲を舞台で吹けなかったと言います。
そこで師匠探しですが、これが当時は大変だったと言います。何しろ当時の尺八家はヘタすぎた。大学生の御メガネにかなう師匠なんて、おいそれと見つかりませんや。山本邦山だったら言う事は無いですが、超多忙で断られました。
その時に電機大学竹生会の永瀬憲治さん、悠の製作者とは再三述べていますが、その永瀬さんが紹介してくださったのが、同じ電機大学竹生会のОB坂田誠山先生でした。1968年の事です。
坂田先生の指導は細かい事は言わないものでした。ただ音程は厳しく叩きこまれました。「メリすぎ」、「ちゃんとカリモドシをしないから低いよ」、「ほら吹き上げた、高い」。矢継ぎ早に注意されました。
それと音楽理論に外れた事は見逃さなかった。「ハ~チレ、レ~ツロとかは、そう吹いてはいけない」。聞くとどんな事でも詳細に説明してくれましたし、聞かないボンクラにはそこまで。あえて説明しません。
ハチレ、レツロは音楽理論上は下降なのでチ、ツは半音。でもね、5孔では困難です。、だから・・・。ハ~と伸ばし、弱く素早くウハと打ちレに繋ぐ。レ~、素早くツレ、そして強くロ。
「チはロの属音だ。高くて良いわけがないぞ」。
「そんなに頻繁にユラない方が良いよ」、「ユリを入れ過ぎると駄目ですか?」、「今キミの吹いている『春の曲』は古今組だろ。オクターブに半音関係は一つ。地歌みたいに二つじゃないよ。もっとスッキリ吹かなくちゃ」。
古典でも音楽理論を無視して存在しているわけではないという当たり前の事を徹底して教えてくれました。洋楽理論の中には邦楽と共通したものも多いのですが、当時の尺八家は決して「知らない」とは言わず、「それは洋楽の理屈だ」で済ます人ばかりでした。
もうこの時代には高校までの音楽の授業で皆一通りは学んできているはずですがね。でも学校の勉強ですから、自分から興味を持って進んで学んだ事と反復学習(読み書きソロバン)以外は憶えていないですよね。
坂田先生は、ご自分で吹いてイチイチ実証しながら教えてくださいました。ボンクラな私達は学生でしたから、坂田先生の有難さも分からず、他の尺八の先生もそうだと思っていました。
意外に思う人が多いので言いますが、坂田先生の時折見せる傲慢無礼な態度。あれはポーズであって、私達弟子の前ではケッシテ見せなかった。邦楽の世界って、音楽レベルの云々より「地位」が評価されるでしょう。そういう事への反発だと思います。何より雄弁に演奏が示しています。正確無比でハッタリじみた事はけっしてやらないですよ。
昔から、音楽家としてのプライドと自信を強く持っていました。ですから、弟子から余計な金を徴収したりしないし、何かの事を強制される事も有りませんでした。
以来半世紀、弟子をあてにしないガチの実演一本で尺八の大家、日本尺八連盟の会長にまで上り詰めた坂田先生こそ、「縦系列の組織」が崩壊した、これからの尺八プロのモデルケースです。
ヘタでも人間性が良い、音痴だけど人の指導が上手、あるいは音楽家としては低レベルだが虚名は有る。こんな事は実演の場では通らないですからね。
ウチのクラブは首領の粟田の主導で、1971年からは現代邦楽主体に方針転換しました。この年の定期演奏会は全9曲中7曲が現代邦楽でした。いくら学生の演奏会でも異例です。これは坂田先生に鍛えられた音楽感覚と、坂田先生の紹介をうけた藤田都志先生が箏を指導してくださらなかったら達成できなかったでしょう。
その定演を聴いた琴古の人間で衝撃をうけた者達との間で、琴古も再び三曲会に戻りたいという話が持ち上がりました。もう分裂の当事者はいなかったので話は進むと思ったのですがね・・・。
もう私も3年生になっていましたので琴古の良い所も分かっていましたし、法政琴古のどうしようもない世間の狭さ、視野の狭さ、その音程の使い物にならない悪さも分かっていました。
現在の童門会の幹部にはウチの分裂前のОB達が入っていますが、あのまま法政琴古が存続していたら。モチその為には再合併が必要だったことは言うまでもありませんが、そうしたら童門会も失礼ながら今の衰退がもう少し何とかなったし、法政琴古もあんな簡単に消滅しなかったと思います。そして私達も琴古の演奏上の魅力、古典における、これぞ尺八という見事な旋律処理を在学中にマスター出来ていたと思います。
偏狭に音程や理論を無視すれば今は消滅するんです。幸い琴古の中にも、かつての法政琴古のように、「新しい事もやってみたい、その為には枠から飛び出しても良い」と考える人達が多くなってきました。
琴古の荒木派の衰退は、もうどうにもならない段階に来ていますが、そこにだけいて古典だけ吹いている事が、結局は「荒木の古典」すら滅ぼすと考える人が増えたことは若干希望ですわな・・・。
寿童先生はもうすでに人間国宝でしたので、実際の指導は御子息の治彦さんがすることが多く、その将来を嘱望されていた治彦さんも私が大学に入った1969年に37歳という若さで急逝なさってしまいました。
糸方と都山の尺八が残ったウチの三曲会は、師匠の必要を痛感していました。何しろ師匠につかなかったのですから、都山の技術低下は著しく、私の1年の時の4年生は夏合宿までしかいませんでしたが、少年期から尺八を吹いていた岡さんを除いて、4年になっても中伝曲を舞台で吹けなかったと言います。
そこで師匠探しですが、これが当時は大変だったと言います。何しろ当時の尺八家はヘタすぎた。大学生の御メガネにかなう師匠なんて、おいそれと見つかりませんや。山本邦山だったら言う事は無いですが、超多忙で断られました。
その時に電機大学竹生会の永瀬憲治さん、悠の製作者とは再三述べていますが、その永瀬さんが紹介してくださったのが、同じ電機大学竹生会のОB坂田誠山先生でした。1968年の事です。
坂田先生の指導は細かい事は言わないものでした。ただ音程は厳しく叩きこまれました。「メリすぎ」、「ちゃんとカリモドシをしないから低いよ」、「ほら吹き上げた、高い」。矢継ぎ早に注意されました。
それと音楽理論に外れた事は見逃さなかった。「ハ~チレ、レ~ツロとかは、そう吹いてはいけない」。聞くとどんな事でも詳細に説明してくれましたし、聞かないボンクラにはそこまで。あえて説明しません。
ハチレ、レツロは音楽理論上は下降なのでチ、ツは半音。でもね、5孔では困難です。、だから・・・。ハ~と伸ばし、弱く素早くウハと打ちレに繋ぐ。レ~、素早くツレ、そして強くロ。
「チはロの属音だ。高くて良いわけがないぞ」。
「そんなに頻繁にユラない方が良いよ」、「ユリを入れ過ぎると駄目ですか?」、「今キミの吹いている『春の曲』は古今組だろ。オクターブに半音関係は一つ。地歌みたいに二つじゃないよ。もっとスッキリ吹かなくちゃ」。
古典でも音楽理論を無視して存在しているわけではないという当たり前の事を徹底して教えてくれました。洋楽理論の中には邦楽と共通したものも多いのですが、当時の尺八家は決して「知らない」とは言わず、「それは洋楽の理屈だ」で済ます人ばかりでした。
もうこの時代には高校までの音楽の授業で皆一通りは学んできているはずですがね。でも学校の勉強ですから、自分から興味を持って進んで学んだ事と反復学習(読み書きソロバン)以外は憶えていないですよね。
坂田先生は、ご自分で吹いてイチイチ実証しながら教えてくださいました。ボンクラな私達は学生でしたから、坂田先生の有難さも分からず、他の尺八の先生もそうだと思っていました。
意外に思う人が多いので言いますが、坂田先生の時折見せる傲慢無礼な態度。あれはポーズであって、私達弟子の前ではケッシテ見せなかった。邦楽の世界って、音楽レベルの云々より「地位」が評価されるでしょう。そういう事への反発だと思います。何より雄弁に演奏が示しています。正確無比でハッタリじみた事はけっしてやらないですよ。
昔から、音楽家としてのプライドと自信を強く持っていました。ですから、弟子から余計な金を徴収したりしないし、何かの事を強制される事も有りませんでした。
以来半世紀、弟子をあてにしないガチの実演一本で尺八の大家、日本尺八連盟の会長にまで上り詰めた坂田先生こそ、「縦系列の組織」が崩壊した、これからの尺八プロのモデルケースです。
ヘタでも人間性が良い、音痴だけど人の指導が上手、あるいは音楽家としては低レベルだが虚名は有る。こんな事は実演の場では通らないですからね。
ウチのクラブは首領の粟田の主導で、1971年からは現代邦楽主体に方針転換しました。この年の定期演奏会は全9曲中7曲が現代邦楽でした。いくら学生の演奏会でも異例です。これは坂田先生に鍛えられた音楽感覚と、坂田先生の紹介をうけた藤田都志先生が箏を指導してくださらなかったら達成できなかったでしょう。
その定演を聴いた琴古の人間で衝撃をうけた者達との間で、琴古も再び三曲会に戻りたいという話が持ち上がりました。もう分裂の当事者はいなかったので話は進むと思ったのですがね・・・。
もう私も3年生になっていましたので琴古の良い所も分かっていましたし、法政琴古のどうしようもない世間の狭さ、視野の狭さ、その音程の使い物にならない悪さも分かっていました。
現在の童門会の幹部にはウチの分裂前のОB達が入っていますが、あのまま法政琴古が存続していたら。モチその為には再合併が必要だったことは言うまでもありませんが、そうしたら童門会も失礼ながら今の衰退がもう少し何とかなったし、法政琴古もあんな簡単に消滅しなかったと思います。そして私達も琴古の演奏上の魅力、古典における、これぞ尺八という見事な旋律処理を在学中にマスター出来ていたと思います。
偏狭に音程や理論を無視すれば今は消滅するんです。幸い琴古の中にも、かつての法政琴古のように、「新しい事もやってみたい、その為には枠から飛び出しても良い」と考える人達が多くなってきました。
琴古の荒木派の衰退は、もうどうにもならない段階に来ていますが、そこにだけいて古典だけ吹いている事が、結局は「荒木の古典」すら滅ぼすと考える人が増えたことは若干希望ですわな・・・。
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