廻り遭い
- 2016/05/21
- 22:46
30年以上前から25年間私の仕事を手伝ってくださった小林竹鳳さんが尺八を始めるきっかけになったのは、昭和17年のある人物との出会いでした。
小林少年は夏の朝、東京行きの始発の汽車を長岡駅で待っていました。その駅の待合室では、反対方向の新潟方面の始発を待つ白い髭を生やした老人と二人きりでした。
小林少年は14歳で東京も初めて、一人旅も初めてで、いつしか老人と話込んでいましたが、そのうち老人は「初めての旅の門出のハナムケ」と言って、尺八を取り出して吹いてくれました。
その音色に感動した小林少年は後年尺八に入門しました。その白い髭の老人が初代川瀬順輔であったことを知ったのはズット後。もう川瀬翁も亡くなっていて写真でそれと分かりました。
人とのふとした廻り遭いが人生において重大な意味を持ってしまう事は多々有りますな。私も1972年の夏、韓国の釜山から済州島に向かう飛行機の中で、たまたま前の座席に座っていた韓国人と親しくならなかったら、今と全く違った人生が有ったと思います。
翌年、その文という韓国人に誘われて日韓ウラ貿易に従事する「運び屋さん」になりました。原資は、アメリカにプロレスの勉強に行く為に1年かかって貯めた金と友人から借りた20万、親からの50万の計130万円。当時としたら大金です。
かなりムダズカイはしましたが、それでもわずか三月で三百万円に増えましたが、そこで終点。文に持ち逃げされてパーです。
もしも、それが無かったら予定通りプロレスの勉強にアメリカに行っていましたでしょう。その後は分かりませんがね、たぶん生涯プロレス稼業ですよ。
1974年の暮、マシオ駒さんから「馬場さんには話を通してあるから全日本プロレスに入社しろ」と言われましたが、もうその時点では他の面白い世界を多々見ていましたので、たとえ少年時代からの憧れとは言え、プロレス会社の勤め人になる気を失っていました。
その選択の成否は分かりませんがね、今の人生がマア良いなら、それが正解だったと思います。邦楽の世界って、長く「予定調和」で動いていましたでしょう、だから、私は若い時から、いじめられた、仕事を妨害された、仲間外れにされた、こういう経験が無いのですよ。
特に上に立っていた人達は世間では珍しいほどに若い者に親切でした。
ここでこの先の話になりますが、シビアな競争の時代になると、もう競争相手になって自分の米櫃が危うくなるかも知れない相手に、そうそう親切にしていられないと思うのですよ。
それが良いか悪いかは別にして、もう後戻りはないと多くの尺八家が分かっています。だって、尺八吹きと話すと「そうは思わない」って言う人いませんよ。
でも、どんな時代状況になろうと、尺八の①は偶然の廻り遭いから始まるのです。その出会いの場で触れ合う人に「この尺八って捨てたモノじゃない。だって、この人がいるんだもの」と思われる存在でありたいと思っています。
小林少年は夏の朝、東京行きの始発の汽車を長岡駅で待っていました。その駅の待合室では、反対方向の新潟方面の始発を待つ白い髭を生やした老人と二人きりでした。
小林少年は14歳で東京も初めて、一人旅も初めてで、いつしか老人と話込んでいましたが、そのうち老人は「初めての旅の門出のハナムケ」と言って、尺八を取り出して吹いてくれました。
その音色に感動した小林少年は後年尺八に入門しました。その白い髭の老人が初代川瀬順輔であったことを知ったのはズット後。もう川瀬翁も亡くなっていて写真でそれと分かりました。
人とのふとした廻り遭いが人生において重大な意味を持ってしまう事は多々有りますな。私も1972年の夏、韓国の釜山から済州島に向かう飛行機の中で、たまたま前の座席に座っていた韓国人と親しくならなかったら、今と全く違った人生が有ったと思います。
翌年、その文という韓国人に誘われて日韓ウラ貿易に従事する「運び屋さん」になりました。原資は、アメリカにプロレスの勉強に行く為に1年かかって貯めた金と友人から借りた20万、親からの50万の計130万円。当時としたら大金です。
かなりムダズカイはしましたが、それでもわずか三月で三百万円に増えましたが、そこで終点。文に持ち逃げされてパーです。
もしも、それが無かったら予定通りプロレスの勉強にアメリカに行っていましたでしょう。その後は分かりませんがね、たぶん生涯プロレス稼業ですよ。
1974年の暮、マシオ駒さんから「馬場さんには話を通してあるから全日本プロレスに入社しろ」と言われましたが、もうその時点では他の面白い世界を多々見ていましたので、たとえ少年時代からの憧れとは言え、プロレス会社の勤め人になる気を失っていました。
その選択の成否は分かりませんがね、今の人生がマア良いなら、それが正解だったと思います。邦楽の世界って、長く「予定調和」で動いていましたでしょう、だから、私は若い時から、いじめられた、仕事を妨害された、仲間外れにされた、こういう経験が無いのですよ。
特に上に立っていた人達は世間では珍しいほどに若い者に親切でした。
ここでこの先の話になりますが、シビアな競争の時代になると、もう競争相手になって自分の米櫃が危うくなるかも知れない相手に、そうそう親切にしていられないと思うのですよ。
それが良いか悪いかは別にして、もう後戻りはないと多くの尺八家が分かっています。だって、尺八吹きと話すと「そうは思わない」って言う人いませんよ。
でも、どんな時代状況になろうと、尺八の①は偶然の廻り遭いから始まるのです。その出会いの場で触れ合う人に「この尺八って捨てたモノじゃない。だって、この人がいるんだもの」と思われる存在でありたいと思っています。
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