本曲のはじめ
- 2016/05/30
- 22:33
虚無僧が尺八を使って托鉢していた時代には纏まりのある曲というのは必要が無かったでしょう。その頃は深編笠は被っていなかったので、マアその気になればメリもカリもユリも出来ましたよ。でもやるまでも無かった。
托鉢ですから、極端な事を言えば、ただ吹きならして家の門口に立てば良いのです。高度の訓練を必要としないからこそ有効な失業対策となりえたのです。
そのうちに構成員を武士に限定したと言いますが、17世紀前半までの武士は身分階級としては、それ以後の様には厳密なものではありませんから、まあ半分タテマエだと思った方が良いでしょう。この時代位までは「武士」の定義については学者や歴史オタクの間でも意見が分かれるのですから、当時の人達が厳密に区別できていたとは到底思えません。言葉使いや所作で区別できるのは身分の固まった、もう少し後です。
失業に際して身分証明の様なものを貰えたケースも有ったのですが、その提示を求められる事は多くないでしょう。
トモカク、虚無僧は集団化します。そして「もと武士」と言う暴力性を売り物に、人々に嫌がられながら、一種の縄張り代もしくは税金徴収のような収入形態を造るわけです。「トメバ料」とか「取り締まり穀代」とかがそうですな。
そうなって、生活がトモカク安定してくると、生活の為に托鉢で日がな一日外をホッツキ歩く必要が無くなり、全員では無いですが、中に尺八と向き合う者が出てきました。
ここが本曲の正式なスタートでしょう。(それ以前にも尺八を使って「本曲」が吹かれていなかったと言うのでは有りませんよ。念の為。)
托鉢に使ったフレーズ、それはごく短いものだったでしょうが、それを取捨選択して編み上げていきました。そうして曲と言えるものになっていったのでしょう。
18世紀後半の黒沢琴古の時代には、もうすでに各地に纏まりの有る曲が多数存在するまでになっていました。
私はじめ古典本曲を「尺八最強ソフト」と考える者は多いです。今のところでは一番の普遍性ももっていると思います。
古典本曲は尺八でしか出来ない。尺八の全ての能力、魅力が詰まっています。長い時間の中での先人達の思いと試行が詰まっているからです。
そして今日でもなお変化し続けています。古曲、新曲、現代曲いずれも固定していることとの違いは、譜面によって固定されなかったと言うより、古典本曲は「本来の形」というものを持たないからです。作曲者というものを持っていない(「神保三谷が有るぞ」とか言わないでね)曲故の特徴です。、譜面化や教授産業ソフトになるのが比較的早く、その為に古典本曲中最大の吹奏人口をもつ琴古流本曲でさえその柔軟度は歴然です。
その為、淘汰をも自然な形で受け止めてられています。今、尺八界最大の世界性を持つソフト、海童道曲のここ半世紀の変貌ぶりを見ても、それは明らかです。
私は、ここにこそ本当の意味での伝統の魅力が有ると思っています。次に、いつか尺八に古典本曲をすら凌駕する新しいソフトが生み出されるとして、次までは尺八の「リーディングソフト」は古典本曲を濃厚に反映したものになるに違いないと私は思っています。
托鉢ですから、極端な事を言えば、ただ吹きならして家の門口に立てば良いのです。高度の訓練を必要としないからこそ有効な失業対策となりえたのです。
そのうちに構成員を武士に限定したと言いますが、17世紀前半までの武士は身分階級としては、それ以後の様には厳密なものではありませんから、まあ半分タテマエだと思った方が良いでしょう。この時代位までは「武士」の定義については学者や歴史オタクの間でも意見が分かれるのですから、当時の人達が厳密に区別できていたとは到底思えません。言葉使いや所作で区別できるのは身分の固まった、もう少し後です。
失業に際して身分証明の様なものを貰えたケースも有ったのですが、その提示を求められる事は多くないでしょう。
トモカク、虚無僧は集団化します。そして「もと武士」と言う暴力性を売り物に、人々に嫌がられながら、一種の縄張り代もしくは税金徴収のような収入形態を造るわけです。「トメバ料」とか「取り締まり穀代」とかがそうですな。
そうなって、生活がトモカク安定してくると、生活の為に托鉢で日がな一日外をホッツキ歩く必要が無くなり、全員では無いですが、中に尺八と向き合う者が出てきました。
ここが本曲の正式なスタートでしょう。(それ以前にも尺八を使って「本曲」が吹かれていなかったと言うのでは有りませんよ。念の為。)
托鉢に使ったフレーズ、それはごく短いものだったでしょうが、それを取捨選択して編み上げていきました。そうして曲と言えるものになっていったのでしょう。
18世紀後半の黒沢琴古の時代には、もうすでに各地に纏まりの有る曲が多数存在するまでになっていました。
私はじめ古典本曲を「尺八最強ソフト」と考える者は多いです。今のところでは一番の普遍性ももっていると思います。
古典本曲は尺八でしか出来ない。尺八の全ての能力、魅力が詰まっています。長い時間の中での先人達の思いと試行が詰まっているからです。
そして今日でもなお変化し続けています。古曲、新曲、現代曲いずれも固定していることとの違いは、譜面によって固定されなかったと言うより、古典本曲は「本来の形」というものを持たないからです。作曲者というものを持っていない(「神保三谷が有るぞ」とか言わないでね)曲故の特徴です。、譜面化や教授産業ソフトになるのが比較的早く、その為に古典本曲中最大の吹奏人口をもつ琴古流本曲でさえその柔軟度は歴然です。
その為、淘汰をも自然な形で受け止めてられています。今、尺八界最大の世界性を持つソフト、海童道曲のここ半世紀の変貌ぶりを見ても、それは明らかです。
私は、ここにこそ本当の意味での伝統の魅力が有ると思っています。次に、いつか尺八に古典本曲をすら凌駕する新しいソフトが生み出されるとして、次までは尺八の「リーディングソフト」は古典本曲を濃厚に反映したものになるに違いないと私は思っています。
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