ケンチャナヨ
- 2016/06/13
- 22:59
今でもそうかも知れませんが、韓国では頻繁に「ケンチャナヨ」という言葉が使われていました。直訳では「大丈夫です」ですが、英語の「ノープロブレム」と同じ様なニュアンスで「平気だよ」という感じです。
これが平気でないケースでも使われるからコワイ。責任を取りたくない事や真面目に対処するつもりが無い事はタイガイ「ケンチャナヨ」で済まされてしまいます。
ノープロブレムの方は使用者の民族性が有り、本当に「問題無い」である場合も有りますが、ケンチャナヨは原理的に韓国人しか使いませんので言葉通りとは受け止められません。
レストランで。 「オイ、この皿洗ってないぞ」。 「ケンチャナヨ、日本人は神経質だなあ」
ホテルで、「お湯が出ないんだけど」。 「ケンチャナヨ、今日は暖かいから」
商店で、 「もう一つ下のサイズの服だと言ったよね」。 「ケンチャナヨ、大きいぶんには着れる」
イチイチ言ってられませんわ。何度も怒鳴りたくなる、殴りたくなる、その内に、ヒョットしてオレタチ日本人が細かすぎるのかなあ、そういう気持ちになるから不思議です。
ある人が感心してました。机を買ったら、引き出しの取っ手が内側に付いていたとの事。売られるまでに何人もの人の目をくぐった分けですよね。それでいて何で?。考えられるのは、途中工程の全員が「後の人間がやる。ケンチャナヨ」だった。
韓国人達も言ってますよ。「このケンチャナヨを改めないと韓国は真の意味での先進国になれない」。でも、その同じ人間が御都合で「ケンチャナヨ」を連発してくださいます。
これがビジネスがらみですと黙ってもいられません。もう36年前ですが、誠和音芸で尺八を作っていた大門胤山さんと竹の調査の為に韓国に行きました。
竹の産地として名高い全羅南道、光州の周辺を探しました。その直後に有名な「光州事件」が起きましたが、直前は平和なものでしたよ。
私と大門さん、それと私の韓国の友人。タクシーを一日チャーターして竹藪を廻りました。いろいろの藪を見ても尺八の竹材は見つかりません。
そのうちに怒りだしたのがタクシーの運転手ですから泣かせます。
「作れるよ。何処も悪くない、ケンチャナヨ」。 たってアンタ、尺八を見た事も聞いた事も無いんでしょう。
別に竹が見つからなかったからって、チャーターだから何の問題も無いわけですよ。思うに、韓国人としての誇りにかけて、「使えない韓国の竹」の為に怒ったのです。見上げたる愛国心、ケンチャナヨ精神。
でも、これがプラスの場合とマイナスの場合が有りますね。近代産業を構築する上ではマイナスに働く事が多いでしょう。しかしながら、この精神無くしての近代化も難しかったのではないですかね。
翻って見てみると、現在の韓国は堂々たる近代工業国ですから、この面をある程度に克服したのでしょう。
また翻って見ると、その頃は尺八界にも「ケンチャナヨオジサン」が大勢いましたね。自作の尺八を「売ってくれ」と持ちこんでくるのは御愛嬌だから良いとして、出来てない点を指摘しても「そうかなあ」と首を捻る。
この精神がプラスに働くと明治以降の近代産業の発展にも繋がる。「西洋人に出来て俺達に出来ないわけがない」。
韓国でも「日本人が出来たんだから韓国人にも出来る」。
尺八の場合、他の楽器や音楽に比べて明らかに安易に取り組める部分が残っていました。今も少なくなったとは言うものの、残っています。
私は繰り返して言ってきたように、ここが残っていることこそ尺八の大いなる強みだと思うんですがねえ・・・。
これが平気でないケースでも使われるからコワイ。責任を取りたくない事や真面目に対処するつもりが無い事はタイガイ「ケンチャナヨ」で済まされてしまいます。
ノープロブレムの方は使用者の民族性が有り、本当に「問題無い」である場合も有りますが、ケンチャナヨは原理的に韓国人しか使いませんので言葉通りとは受け止められません。
レストランで。 「オイ、この皿洗ってないぞ」。 「ケンチャナヨ、日本人は神経質だなあ」
ホテルで、「お湯が出ないんだけど」。 「ケンチャナヨ、今日は暖かいから」
商店で、 「もう一つ下のサイズの服だと言ったよね」。 「ケンチャナヨ、大きいぶんには着れる」
イチイチ言ってられませんわ。何度も怒鳴りたくなる、殴りたくなる、その内に、ヒョットしてオレタチ日本人が細かすぎるのかなあ、そういう気持ちになるから不思議です。
ある人が感心してました。机を買ったら、引き出しの取っ手が内側に付いていたとの事。売られるまでに何人もの人の目をくぐった分けですよね。それでいて何で?。考えられるのは、途中工程の全員が「後の人間がやる。ケンチャナヨ」だった。
韓国人達も言ってますよ。「このケンチャナヨを改めないと韓国は真の意味での先進国になれない」。でも、その同じ人間が御都合で「ケンチャナヨ」を連発してくださいます。
これがビジネスがらみですと黙ってもいられません。もう36年前ですが、誠和音芸で尺八を作っていた大門胤山さんと竹の調査の為に韓国に行きました。
竹の産地として名高い全羅南道、光州の周辺を探しました。その直後に有名な「光州事件」が起きましたが、直前は平和なものでしたよ。
私と大門さん、それと私の韓国の友人。タクシーを一日チャーターして竹藪を廻りました。いろいろの藪を見ても尺八の竹材は見つかりません。
そのうちに怒りだしたのがタクシーの運転手ですから泣かせます。
「作れるよ。何処も悪くない、ケンチャナヨ」。 たってアンタ、尺八を見た事も聞いた事も無いんでしょう。
別に竹が見つからなかったからって、チャーターだから何の問題も無いわけですよ。思うに、韓国人としての誇りにかけて、「使えない韓国の竹」の為に怒ったのです。見上げたる愛国心、ケンチャナヨ精神。
でも、これがプラスの場合とマイナスの場合が有りますね。近代産業を構築する上ではマイナスに働く事が多いでしょう。しかしながら、この精神無くしての近代化も難しかったのではないですかね。
翻って見てみると、現在の韓国は堂々たる近代工業国ですから、この面をある程度に克服したのでしょう。
また翻って見ると、その頃は尺八界にも「ケンチャナヨオジサン」が大勢いましたね。自作の尺八を「売ってくれ」と持ちこんでくるのは御愛嬌だから良いとして、出来てない点を指摘しても「そうかなあ」と首を捻る。
この精神がプラスに働くと明治以降の近代産業の発展にも繋がる。「西洋人に出来て俺達に出来ないわけがない」。
韓国でも「日本人が出来たんだから韓国人にも出来る」。
尺八の場合、他の楽器や音楽に比べて明らかに安易に取り組める部分が残っていました。今も少なくなったとは言うものの、残っています。
私は繰り返して言ってきたように、ここが残っていることこそ尺八の大いなる強みだと思うんですがねえ・・・。
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