天意
- 2016/07/15
- 22:27
若い時の、若い自分の、あの熱い心は何処に行ってしまったんですかね。若い時代はどんな事でもスッパリと割り切れました。世の中は善と悪、そして段階レベルの無いただ一つの中間。真と偽、アヤフヤなど存在しない。黒と白、グレイなんか見た事無い。そして目明き千人目クラ千人、片目だけ見える人などいない。
つまり若い時代は、世の真相が鮮やかに見えていたわけです。ですから信念というものが有りました。それを支える熱い心も有りました。
学習、思索、経験、これらは紛れも無く人間を愚物にします。人間、強い信念に基ずいた熱い行動を一番とれるのは、もしかして思想とか宗教とかをタダひたすら信じた時ではないですかね。
今回また起きた「イスラムテロ」を見てそう思います。私の若い時の過激派の爆弾テロだってそうでがしょうが・・・。
イスラムの坊さんが一致して「あんな事をしていると地獄に堕ちる」と宣言したら、少しは効果が有るんではないですかね。「イスラム過激思想」にカブレタ者の半分くらいは「エッ、そうなの。ちっとも知らなかったよ」と、そういう具合にはいきませんかしら?。
儒教が思想であるのか宗教であるのかは人によって意見が分かれます。神を語らないという不思議な宗教とも考えられるし、同様の禅と同じく「中国版啓示宗教」であるとも言えますね。戒律を創ったのは人間ですが、ユダヤ、キリスト、イスラムの一神教御三家と違い、その事(人間が創った)を前提にしています。
儒教が一種凄味の有る宗教的なまでの呪縛力を発揮したのは「宋学」でしょう。朱熹はただ口で言っただけともとれますが、文天祥とか大石内蔵助みたいに、それを実践した人達がいて、今にいたるも美談として語られるほど影響力は強いものが有ります。
忠臣蔵なんかアナタ、行動に儒教的味付けをする為に、講談では登場人物に荷田春満までゲスト出演させてるんですぜ。もっとも最近では「国学四大人」の相場も場立できないほど下がりましたな。
日本人や中国人は「神無き不敵の民」とか西洋人から言われますがね、神を前提にした一貫した規範が無いとか言われますがね、ルース・ベネディクトさんなんか「罪の思想、恥の思想」で分けますがね、どっこい私の知る範囲では極く少数のサンプルであってもキリスト教徒にしろイスラム教徒にしろ、一番重要なのは神ではなく人の目、つまり「恥」でっせ。
最高位坊主でもあったオスマン帝国の皇帝にアル中が多いかった事は広く知られていますが、エジプトのホテルのレストランでワインやビールのグラスを挙げるアラブの富豪だか王族だかを見るのは珍しいこっちゃ無いですぜ。「酒を持ってたら売ってくれ」と言われる機会なんぞは日常ですがな。ただ、けっして人前ではやりません。全てを見通す神の目より世間の目が怖いからです。
尺八商売について言うと、世間は怖くないんですよね。少なくとも、街の商店の様にオバちゃん一人の口で商売が上がり下がりするような事は有りません。そりゃ「オレを怒らせると大変な事になるぞ」とか言うオカタも昔はいました。コワくない、コワくない、山口百恵じゃないけどコワくない。そんな横車を押す人の影響力なんて知れたものですって。尺八界ってオトナの社会人の集団なんですよ。
でも、それだからこそ儒教で言う「天」のようなモノは有るんですよ。売れてる製管師はあまり客の評判を気にしません。個人的感想に振り回されたりしませんし、不評に動揺したりもしません。ですが、その集合体なんでしょうが「天の評価」というような感じの物に鈍感でいると、てきめんオチブレます。自らに恥じないようにしなくては。
「天」に目をやった熱い心に基ずく行動。それが何より大切な事だと思います。
つまり若い時代は、世の真相が鮮やかに見えていたわけです。ですから信念というものが有りました。それを支える熱い心も有りました。
学習、思索、経験、これらは紛れも無く人間を愚物にします。人間、強い信念に基ずいた熱い行動を一番とれるのは、もしかして思想とか宗教とかをタダひたすら信じた時ではないですかね。
今回また起きた「イスラムテロ」を見てそう思います。私の若い時の過激派の爆弾テロだってそうでがしょうが・・・。
イスラムの坊さんが一致して「あんな事をしていると地獄に堕ちる」と宣言したら、少しは効果が有るんではないですかね。「イスラム過激思想」にカブレタ者の半分くらいは「エッ、そうなの。ちっとも知らなかったよ」と、そういう具合にはいきませんかしら?。
儒教が思想であるのか宗教であるのかは人によって意見が分かれます。神を語らないという不思議な宗教とも考えられるし、同様の禅と同じく「中国版啓示宗教」であるとも言えますね。戒律を創ったのは人間ですが、ユダヤ、キリスト、イスラムの一神教御三家と違い、その事(人間が創った)を前提にしています。
儒教が一種凄味の有る宗教的なまでの呪縛力を発揮したのは「宋学」でしょう。朱熹はただ口で言っただけともとれますが、文天祥とか大石内蔵助みたいに、それを実践した人達がいて、今にいたるも美談として語られるほど影響力は強いものが有ります。
忠臣蔵なんかアナタ、行動に儒教的味付けをする為に、講談では登場人物に荷田春満までゲスト出演させてるんですぜ。もっとも最近では「国学四大人」の相場も場立できないほど下がりましたな。
日本人や中国人は「神無き不敵の民」とか西洋人から言われますがね、神を前提にした一貫した規範が無いとか言われますがね、ルース・ベネディクトさんなんか「罪の思想、恥の思想」で分けますがね、どっこい私の知る範囲では極く少数のサンプルであってもキリスト教徒にしろイスラム教徒にしろ、一番重要なのは神ではなく人の目、つまり「恥」でっせ。
最高位坊主でもあったオスマン帝国の皇帝にアル中が多いかった事は広く知られていますが、エジプトのホテルのレストランでワインやビールのグラスを挙げるアラブの富豪だか王族だかを見るのは珍しいこっちゃ無いですぜ。「酒を持ってたら売ってくれ」と言われる機会なんぞは日常ですがな。ただ、けっして人前ではやりません。全てを見通す神の目より世間の目が怖いからです。
尺八商売について言うと、世間は怖くないんですよね。少なくとも、街の商店の様にオバちゃん一人の口で商売が上がり下がりするような事は有りません。そりゃ「オレを怒らせると大変な事になるぞ」とか言うオカタも昔はいました。コワくない、コワくない、山口百恵じゃないけどコワくない。そんな横車を押す人の影響力なんて知れたものですって。尺八界ってオトナの社会人の集団なんですよ。
でも、それだからこそ儒教で言う「天」のようなモノは有るんですよ。売れてる製管師はあまり客の評判を気にしません。個人的感想に振り回されたりしませんし、不評に動揺したりもしません。ですが、その集合体なんでしょうが「天の評価」というような感じの物に鈍感でいると、てきめんオチブレます。自らに恥じないようにしなくては。
「天」に目をやった熱い心に基ずく行動。それが何より大切な事だと思います。
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