ドン
- 2016/08/04
- 23:31
東京都知事に小池さんが決まりましたね。でも都議会を牛耳っているのは「ドン」と呼ばれる内田とか言う人だそうで、いろいろ有るものですな。
ところで尺八界にドンと呼ばれる人っているのでしょうか? 今はいません。それでは20年前なら? 都山流尺八楽会の理事長だった高平艟山さんが最もニュアンスに近かったですかね。でも高平さんの力は楽会以外には及びませんし、楽会内部ですら影響力を行為できる範囲が見えていたので、私程度の者でも少しもビビることなく喧嘩できる程度の怖さしか有りませんでした。
30年、40年と遡っても尺八界にドンは心当たりが有りません。でも60年以上前になると巨大な影が姿を現します。言わずと知れた初代中尾都山。
ドンの条件は、と言うより力の源泉は利益供与と逆らった者に対する報復能力です。ですから専業者のほとんどいなくなってからの尺八界にドンがいないのは当たり前の話です。
たとえ破門されたって、開きなおれば一般社会人ですから尺八で利益なんか受けていないし、師匠が報復しようにも方法が有りません。
ヤクザの世界では、その構成員は組の暴力性を看板にしてシノギを立てるかわりに、組に上納金も納めるわけですし、イザという時の動員にも応じるわけです。
もし逆らうと組から破門状が廻ります。もし拾う組織が有った場合は、破門した組との間は敵対関係に入りますので、相互の組織に余程に力の差が有って、なおかつ破門された人間に高い能力でも無ければ、そういう事は通常起こりません。
尺八界では初代都山こそ唯一無二のドンだったのではないでしょうか。門人に各地で尺八教室を開かせて、それが軌道に乗るまでの間は信じられないほどの手厚い援助の手を差し伸べる。その結果、昭和10年代の最盛期には、全国に何百人という専業尺八家を擁するまでになりました。
その反面、もし離反すれば、弟子に競合教室を開かせたり、糸方にも影響力を行使して演奏会に出られなくしたりしました。
戦略能力も卓抜で、例えば宮城道雄の人気が高まれば提携を企てる。それまで宮城のパートナーは刎頸の友・吉田晴風であり、当時の邦楽界の慣習では容易くは割り込めませんでした。
都山ですら、初めに宮城に申し出た時には吉田晴風の弟子と一緒に尺八を吹かされました。
都山の流人が「大都山の当主が吉田晴風の弟子と一緒などとはトンデモナイ事です。やめてください」と止めるのも笑って制し、舞台を務めました。
そして、その演奏会のチケットを三百枚買って吉田晴風との桁違いの観客動員力を示して、たいして時をかけずに宮城道雄と強い提携関係を築いてしまいました。邦楽に限らず大きな興行というものが無く、大会場がほとんど無かった大正から昭和初期だと聴衆三百人は会場に入りきれないほどの多さです。
また都山の譜面に宮城曲を加える事で、宮城にも莫大な印税が入りましたし、全国規模での演奏会も達成できました。当時は都山流は邦楽界で他を圧倒する規模を持っていたのですが、その規模を創り得たのも偉大な都山なればこそです。
どうして今は同じことが出来ない?。ですから邦楽の教授産業の終焉ですって。組織を創れる条件が無いのですよ。それ以前に維持する条件も失われてしまいました。
ところで尺八界にドンと呼ばれる人っているのでしょうか? 今はいません。それでは20年前なら? 都山流尺八楽会の理事長だった高平艟山さんが最もニュアンスに近かったですかね。でも高平さんの力は楽会以外には及びませんし、楽会内部ですら影響力を行為できる範囲が見えていたので、私程度の者でも少しもビビることなく喧嘩できる程度の怖さしか有りませんでした。
30年、40年と遡っても尺八界にドンは心当たりが有りません。でも60年以上前になると巨大な影が姿を現します。言わずと知れた初代中尾都山。
ドンの条件は、と言うより力の源泉は利益供与と逆らった者に対する報復能力です。ですから専業者のほとんどいなくなってからの尺八界にドンがいないのは当たり前の話です。
たとえ破門されたって、開きなおれば一般社会人ですから尺八で利益なんか受けていないし、師匠が報復しようにも方法が有りません。
ヤクザの世界では、その構成員は組の暴力性を看板にしてシノギを立てるかわりに、組に上納金も納めるわけですし、イザという時の動員にも応じるわけです。
もし逆らうと組から破門状が廻ります。もし拾う組織が有った場合は、破門した組との間は敵対関係に入りますので、相互の組織に余程に力の差が有って、なおかつ破門された人間に高い能力でも無ければ、そういう事は通常起こりません。
尺八界では初代都山こそ唯一無二のドンだったのではないでしょうか。門人に各地で尺八教室を開かせて、それが軌道に乗るまでの間は信じられないほどの手厚い援助の手を差し伸べる。その結果、昭和10年代の最盛期には、全国に何百人という専業尺八家を擁するまでになりました。
その反面、もし離反すれば、弟子に競合教室を開かせたり、糸方にも影響力を行使して演奏会に出られなくしたりしました。
戦略能力も卓抜で、例えば宮城道雄の人気が高まれば提携を企てる。それまで宮城のパートナーは刎頸の友・吉田晴風であり、当時の邦楽界の慣習では容易くは割り込めませんでした。
都山ですら、初めに宮城に申し出た時には吉田晴風の弟子と一緒に尺八を吹かされました。
都山の流人が「大都山の当主が吉田晴風の弟子と一緒などとはトンデモナイ事です。やめてください」と止めるのも笑って制し、舞台を務めました。
そして、その演奏会のチケットを三百枚買って吉田晴風との桁違いの観客動員力を示して、たいして時をかけずに宮城道雄と強い提携関係を築いてしまいました。邦楽に限らず大きな興行というものが無く、大会場がほとんど無かった大正から昭和初期だと聴衆三百人は会場に入りきれないほどの多さです。
また都山の譜面に宮城曲を加える事で、宮城にも莫大な印税が入りましたし、全国規模での演奏会も達成できました。当時は都山流は邦楽界で他を圧倒する規模を持っていたのですが、その規模を創り得たのも偉大な都山なればこそです。
どうして今は同じことが出来ない?。ですから邦楽の教授産業の終焉ですって。組織を創れる条件が無いのですよ。それ以前に維持する条件も失われてしまいました。
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