越後は父の故郷
- 2016/09/17
- 23:26
私の父は新潟市の今は中央区となっている所で生まれました。ですから我が家の墓は今も新潟市中央区の西堀に有ります。今も昔も新潟では長男が家を継いで、次男以下の男は東京や大阪に働きに行くのが普通でした。とは言っても我が家の場合には祖父は長男でしたが、どうにもならなくなって東京に出てきました。
私の子供の頃は、銭湯がたくさん有って、それを営んでいる人には新潟出身者が多いとか聞きました。
今でも県や地域ごとに人の性格にある特性が存在します。「人はそれぞれ、何処にも陽気な人もいれば陰気な人もいる」、そういう事を言う人は世界が極端に狭いか、トレンドと個別の区別がついていないのか、あるいは極く初歩の心理学をも学んでいないかでしょう。個人の性格を越えて、国民性、県民性というものが現在でも大きく存在しているからこそ、企業は市場調査の時に、その研究をするわけです。
それで言うと、新潟県人は粘り強く働き者なので、銭湯のようなコツコツと辛抱強く努力しなければならない職業には向いているという事なのでしょう。
新潟に住む人達は長く雪との共存でした。江戸時代の鈴木牧之に『北越雪譜』という名著が有りますが、ここに書かれている様に、太古の昔から新潟の人は雪と生きてきました。
怠け者は生きていけません。冬の準備を怠る人間は野垂れ死にです。村の長老の経験を聞き、時に協力しあって計画通りに素早く農作業を推し進めないと冬を越せません。
昔は雪が降ってしまうと文字通り籠城で、辛抱強く春の到来を待つだけになりす。そこでも雪下ろしを怠けていれば『北越雪譜』通りの恐ろしいメに会います。
この雪との共生が、粘り強く計画的で勤勉、時に機転が効き時に従順、そしてコツコツ努力するという新潟人の長所を形成しました。
そして短所は?保守的で思考が柔軟性に欠ける、権威に弱い、気宇の小ささはじめ、これを全て裏から見た場合に短所になります。
越後人は誰でも郷土の英雄として上杉謙信を尊敬しています。江戸時代の終わりには越後平野は見渡す限りの水田で、新潟県は県単位では日本一の人口を擁していました。
しかし謙信の時代には湿地ばかりで農業生産力が低く、越後の国力は44万石と、長大な国土面積を持つわりには多くありませんでした。その頃の産業の主体は米ではなく青苧ですね。
上杉謙信の事績は不思議ですね。確保した直轄領域は越後とその周辺ですから、多くても100万石を越えていた時期は長くはなかったはずです。領土的野心より信義を重んじて、同時代ですでに義将と言われていました。なので傘下の土豪は戦が多いのに報われない。それでいてよく謙信に従ったものです。現在だってそうでしょう。命を的にして働いて、それで勝っているのに報奨が無ければ普通は従いませんよ。
それでいて戦場に臨んでは、武田信玄をすら茫然とさせる無類の強悍さを発揮しました。
国内で不満分子が何度も反乱を起こすものの、謙信一代は拡がる事も無く越後は治まっていました。
これって皆見過ごしにしていますが、当時の事情から見て極めて異常な事なのですよ。これを解くカギは一つ、新潟の県民性でしか説明できません。
前記の越後人の長所短所がそっくり上杉謙信の性格イメージになっていますから、新潟県人が自らの性格を長い間に謙信に投影したと考えられます。
新潟は豪農が多く、また権威に従順な気風が狙われ、江戸時代にはすでに江戸や大阪での食い詰め芸術家の市場になっていました。
情報伝達が無い時代ですから、芸術や文化を商売道具にしている人の悪い連中にとって、「権威」を持ち出しさえすればハッタリも真面目に受け止める、商業主義未発達の越後人は、さぞ「良いお客」だったでしょう。
その為、尺八においても日本海側で随一、他と比較にならない程の尺八人口を持っていました。しかも都山に先行して琴古のあらゆる会派が有ったのですよ。このあたり、同じく東京への通り道になっていた群馬と似ていましたが、群馬の場合は日本屈指の尺八人口稀少県であるのに比べて新潟の尺八吹きの多さには驚きます。
その新潟の平成に入ってからの高齢化と激減ぶりは嘆かわしいですね。新しい事に及び腰の新潟人の気質が尺八音楽の新しい展開についていっていないです。
でも律儀ですね。私は今だに悩むと新潟頼りです。長岡の展示会の様に「せっかく来たのだから」と付き合いで買ってくれる場所は他には有りません。
私の子供の頃は、銭湯がたくさん有って、それを営んでいる人には新潟出身者が多いとか聞きました。
今でも県や地域ごとに人の性格にある特性が存在します。「人はそれぞれ、何処にも陽気な人もいれば陰気な人もいる」、そういう事を言う人は世界が極端に狭いか、トレンドと個別の区別がついていないのか、あるいは極く初歩の心理学をも学んでいないかでしょう。個人の性格を越えて、国民性、県民性というものが現在でも大きく存在しているからこそ、企業は市場調査の時に、その研究をするわけです。
それで言うと、新潟県人は粘り強く働き者なので、銭湯のようなコツコツと辛抱強く努力しなければならない職業には向いているという事なのでしょう。
新潟に住む人達は長く雪との共存でした。江戸時代の鈴木牧之に『北越雪譜』という名著が有りますが、ここに書かれている様に、太古の昔から新潟の人は雪と生きてきました。
怠け者は生きていけません。冬の準備を怠る人間は野垂れ死にです。村の長老の経験を聞き、時に協力しあって計画通りに素早く農作業を推し進めないと冬を越せません。
昔は雪が降ってしまうと文字通り籠城で、辛抱強く春の到来を待つだけになりす。そこでも雪下ろしを怠けていれば『北越雪譜』通りの恐ろしいメに会います。
この雪との共生が、粘り強く計画的で勤勉、時に機転が効き時に従順、そしてコツコツ努力するという新潟人の長所を形成しました。
そして短所は?保守的で思考が柔軟性に欠ける、権威に弱い、気宇の小ささはじめ、これを全て裏から見た場合に短所になります。
越後人は誰でも郷土の英雄として上杉謙信を尊敬しています。江戸時代の終わりには越後平野は見渡す限りの水田で、新潟県は県単位では日本一の人口を擁していました。
しかし謙信の時代には湿地ばかりで農業生産力が低く、越後の国力は44万石と、長大な国土面積を持つわりには多くありませんでした。その頃の産業の主体は米ではなく青苧ですね。
上杉謙信の事績は不思議ですね。確保した直轄領域は越後とその周辺ですから、多くても100万石を越えていた時期は長くはなかったはずです。領土的野心より信義を重んじて、同時代ですでに義将と言われていました。なので傘下の土豪は戦が多いのに報われない。それでいてよく謙信に従ったものです。現在だってそうでしょう。命を的にして働いて、それで勝っているのに報奨が無ければ普通は従いませんよ。
それでいて戦場に臨んでは、武田信玄をすら茫然とさせる無類の強悍さを発揮しました。
国内で不満分子が何度も反乱を起こすものの、謙信一代は拡がる事も無く越後は治まっていました。
これって皆見過ごしにしていますが、当時の事情から見て極めて異常な事なのですよ。これを解くカギは一つ、新潟の県民性でしか説明できません。
前記の越後人の長所短所がそっくり上杉謙信の性格イメージになっていますから、新潟県人が自らの性格を長い間に謙信に投影したと考えられます。
新潟は豪農が多く、また権威に従順な気風が狙われ、江戸時代にはすでに江戸や大阪での食い詰め芸術家の市場になっていました。
情報伝達が無い時代ですから、芸術や文化を商売道具にしている人の悪い連中にとって、「権威」を持ち出しさえすればハッタリも真面目に受け止める、商業主義未発達の越後人は、さぞ「良いお客」だったでしょう。
その為、尺八においても日本海側で随一、他と比較にならない程の尺八人口を持っていました。しかも都山に先行して琴古のあらゆる会派が有ったのですよ。このあたり、同じく東京への通り道になっていた群馬と似ていましたが、群馬の場合は日本屈指の尺八人口稀少県であるのに比べて新潟の尺八吹きの多さには驚きます。
その新潟の平成に入ってからの高齢化と激減ぶりは嘆かわしいですね。新しい事に及び腰の新潟人の気質が尺八音楽の新しい展開についていっていないです。
でも律儀ですね。私は今だに悩むと新潟頼りです。長岡の展示会の様に「せっかく来たのだから」と付き合いで買ってくれる場所は他には有りません。
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