尺八ジャンル
- 2016/09/22
- 17:19
私の住んでいる新松田から小田急線で二つ目に秦野という駅が有ります。秦野というからには古い時代に秦氏が開いたのでしょう。秦氏は朝鮮からの渡来人だとされていますが、同じく渡来人だとも言われる蘇我氏と密接な関係が有り、秦の居住地の近くには必ずソガが有ります。おそらくは蘇我氏の土地の管理を秦氏がしていたのでしょう。
秦野の近くにも小田原市の曾我が有り、ここは戦前は自分の名前を漢字で書ける「内地人」であれば誰もが知っていて、戦後は偏差値70でも知らない人もいる、かつての有名人、曾我五郎、十郎の出身地です。
ともかく秦野ですが、前にこの地には高橋空山さんが住んでいました。この人の名は、普化系の尺八の愛好者であれば、別に名前を平仮名で書けなくても知っています。だって今どきは、ひよっとすると外国人の方が多いかもしれませんからね。高橋さんの『普化宗史』は、その方面の研究家にとって欠かせない著書となっています。
けど普通に尺八を吹いている方ですと、「知らない」と言う人が大多数だと思います。高橋さんの御弟子で、これも高名だった犬飼虚無童さんもやはり秦野に居住していました。
高橋さんが亡くなって、もう30年経ちますが、秦野には都山や民謡の尺八吹きが前は大勢いたのですが、当時でも意外に誰もこの両氏と会っていません。「だって別に用も無いですからね」と言うことでした。
だって秦野って今は人口16万ですが、30年前だと5万人もいなかった田舎町ですよ。そこに高名な尺八家がいたら普通は一回くらいは話のタネに行ってみるでしょうが・・・。
その頃は民謡尺八の全盛期で全国に何万人といましたが、青木鈴慕、横山勝也の名前を知らない人は珍しくなかった。その反対に菊池淡水や神山天水を知らない古典系尺八の人は多数派です。
これってどうして? 尺八なんて当時は日本だけだし、吹いている人も少ない。言ってみれば極く狭い世界です。その中でもジャンルによるセクトが有り、それも互いに話が通じあわないほどに孤立系社会を創っていました.
私の師匠の酒井竹保先生は意外に思う人もいるでしょうが、実は民謡尺八にも堪能なのです。民謡と古典本曲との「打ち」や「転がし」の違いなど教えてくれました。「その手だと民謡のヒナビタ美しさが出せないですよ」とか言われましたよ。
そして、「簡単だ」と言って安易に古典系の人が民謡を吹く事を「知らないで吹いている。なってない」と残念がっていました。古典系の師匠の中には弟子に「民謡や歌謡曲を吹くと芸が荒れる」と禁止していた人だって多かったのです。他のジャンルをコケにするだけで学ばないのです。それじゃ手は動いても心は動きませんわ。
私が思うに、尺八を楽器と捉えないからこそ、こういうブザマな事になるんです。だって、「簡単だ」と言ったって現に出来ていないんだもの。
それは民謡や普化系の曲は「簡単」ですよ。六段を吹けたら、どんな曲でも手は大丈夫でしょう。でも、そういうもんじゃないのがジャンルですねん。
「今は良い時代になった。もうそういう事を言う人もいなくなった」ですって。そうなら良いですがね。吹く事にばかりに興味が有って、他の事には無関心になったんとチャイまっか?。
「外国人の方が良く勉強してる」ってのがプロの実感ですよ。歴史やウンチクは憶えてたって、それで尺八が上手くなるという事はありませんよ。でも、そういう事にも興味を持つと、同じ曲を聴いても厚みが違って聞き上手になり、ひいては演奏も間接的にではあれ上手になると思いますがね。
秦野の近くにも小田原市の曾我が有り、ここは戦前は自分の名前を漢字で書ける「内地人」であれば誰もが知っていて、戦後は偏差値70でも知らない人もいる、かつての有名人、曾我五郎、十郎の出身地です。
ともかく秦野ですが、前にこの地には高橋空山さんが住んでいました。この人の名は、普化系の尺八の愛好者であれば、別に名前を平仮名で書けなくても知っています。だって今どきは、ひよっとすると外国人の方が多いかもしれませんからね。高橋さんの『普化宗史』は、その方面の研究家にとって欠かせない著書となっています。
けど普通に尺八を吹いている方ですと、「知らない」と言う人が大多数だと思います。高橋さんの御弟子で、これも高名だった犬飼虚無童さんもやはり秦野に居住していました。
高橋さんが亡くなって、もう30年経ちますが、秦野には都山や民謡の尺八吹きが前は大勢いたのですが、当時でも意外に誰もこの両氏と会っていません。「だって別に用も無いですからね」と言うことでした。
だって秦野って今は人口16万ですが、30年前だと5万人もいなかった田舎町ですよ。そこに高名な尺八家がいたら普通は一回くらいは話のタネに行ってみるでしょうが・・・。
その頃は民謡尺八の全盛期で全国に何万人といましたが、青木鈴慕、横山勝也の名前を知らない人は珍しくなかった。その反対に菊池淡水や神山天水を知らない古典系尺八の人は多数派です。
これってどうして? 尺八なんて当時は日本だけだし、吹いている人も少ない。言ってみれば極く狭い世界です。その中でもジャンルによるセクトが有り、それも互いに話が通じあわないほどに孤立系社会を創っていました.
私の師匠の酒井竹保先生は意外に思う人もいるでしょうが、実は民謡尺八にも堪能なのです。民謡と古典本曲との「打ち」や「転がし」の違いなど教えてくれました。「その手だと民謡のヒナビタ美しさが出せないですよ」とか言われましたよ。
そして、「簡単だ」と言って安易に古典系の人が民謡を吹く事を「知らないで吹いている。なってない」と残念がっていました。古典系の師匠の中には弟子に「民謡や歌謡曲を吹くと芸が荒れる」と禁止していた人だって多かったのです。他のジャンルをコケにするだけで学ばないのです。それじゃ手は動いても心は動きませんわ。
私が思うに、尺八を楽器と捉えないからこそ、こういうブザマな事になるんです。だって、「簡単だ」と言ったって現に出来ていないんだもの。
それは民謡や普化系の曲は「簡単」ですよ。六段を吹けたら、どんな曲でも手は大丈夫でしょう。でも、そういうもんじゃないのがジャンルですねん。
「今は良い時代になった。もうそういう事を言う人もいなくなった」ですって。そうなら良いですがね。吹く事にばかりに興味が有って、他の事には無関心になったんとチャイまっか?。
「外国人の方が良く勉強してる」ってのがプロの実感ですよ。歴史やウンチクは憶えてたって、それで尺八が上手くなるという事はありませんよ。でも、そういう事にも興味を持つと、同じ曲を聴いても厚みが違って聞き上手になり、ひいては演奏も間接的にではあれ上手になると思いますがね。
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