定跡
- 2016/09/23
- 22:53
小学校時代は父親と将棋をさして「こんな強い人がいるんだ」と思いました。どうやっても歯がたちませんでした。下の叔父はさらに強かった。
中学1年の後半からは父も叔父も私とやりたがらなくなりました。「2枚落ち」でもコテンパンにされるからです。秘訣は「定跡」の習得です。父や叔父の将棋は我流であり、ただ頭が良かったので当時の「縁台将棋」のレベルでは「強い」と評判だったにすぎません。
昭和30年代ではNHKの将棋対局番組は無かったと思いますし、仮に有ったとしても、その頃のオトナは見やしませんや。趣味は学びの対象ではなかったのです。
その点、中学なんて人生で一番記憶力の良い時です。その時代に子供が将棋の本を買い込んで、一生懸命に「定跡」を覚え込んで、憶えた「定跡」を使用して味をしめれば、さらに憶えて瞬く間に当時の縁台に集っていた素人棋士は鎧袖一触です。
「定跡」は過去の経験知の集積です。これを憶えないでも凄く強い人は何千何万に一人の天才的才能の持ち主だけです。
時々は我流棋士で意表をついた「攻め」をやる人にも当たります。定跡に無い奇襲を仕掛けられて、私でも1回はやられましたが、奇襲奇策は通用するのは一度きりです。「定跡破り」など普通の人には無理です。一度くらうと次からは防御法も分かり、自分の定跡になりました。
さて、これを尺八に当て嵌めるとどうですか? 尺八で「定跡」にあたるモノと言えば「基礎技術の習得」です。だから軽々しく「師匠につけ」とは言えないのです。
尺八の場合ですと、ほとんどの師匠が楽器、音楽としての基礎技術の習得が不十分ですので、まだ自分で勝手にやった方が、確率上はですが、マシでしょう。これが言い過ぎなら、今ではマシと考える人が多くなりました。
勿論、「堅苦しい師弟関係を持ちたくない」と考えて会に入らない人はそれ以上にいます。いずれにしろ、もう流や会派の保障する肩書は通用していないのです。
人々の音楽的素養が低かった時代とは違うのですよ。
尺八のプロの場合、例外を除いて師匠もプロです。他の師匠についていて、「もっと上手くなりたい」と思った人がプロのもとに転門してくるからです。ですから、転門にウルサイこの世界でもプロの門下に入る一度の転門については何も言われません。
プロに習うと、我流でやっていた天狗の鼻がペシャンコになります。そこから尺八が本当の意味で面白くなります。
だって、将棋でオトナを撫で切りにしていた私が、大学の将棋部の2年生とやっても「子供扱い」にされるんですよ。
「上には上が有る」と実感したところから、「道」が始まりますね。ただし、ことは趣味ですから「気楽に楽しみたい」という人だって、楽しむ権利は平等です。
中学1年の後半からは父も叔父も私とやりたがらなくなりました。「2枚落ち」でもコテンパンにされるからです。秘訣は「定跡」の習得です。父や叔父の将棋は我流であり、ただ頭が良かったので当時の「縁台将棋」のレベルでは「強い」と評判だったにすぎません。
昭和30年代ではNHKの将棋対局番組は無かったと思いますし、仮に有ったとしても、その頃のオトナは見やしませんや。趣味は学びの対象ではなかったのです。
その点、中学なんて人生で一番記憶力の良い時です。その時代に子供が将棋の本を買い込んで、一生懸命に「定跡」を覚え込んで、憶えた「定跡」を使用して味をしめれば、さらに憶えて瞬く間に当時の縁台に集っていた素人棋士は鎧袖一触です。
「定跡」は過去の経験知の集積です。これを憶えないでも凄く強い人は何千何万に一人の天才的才能の持ち主だけです。
時々は我流棋士で意表をついた「攻め」をやる人にも当たります。定跡に無い奇襲を仕掛けられて、私でも1回はやられましたが、奇襲奇策は通用するのは一度きりです。「定跡破り」など普通の人には無理です。一度くらうと次からは防御法も分かり、自分の定跡になりました。
さて、これを尺八に当て嵌めるとどうですか? 尺八で「定跡」にあたるモノと言えば「基礎技術の習得」です。だから軽々しく「師匠につけ」とは言えないのです。
尺八の場合ですと、ほとんどの師匠が楽器、音楽としての基礎技術の習得が不十分ですので、まだ自分で勝手にやった方が、確率上はですが、マシでしょう。これが言い過ぎなら、今ではマシと考える人が多くなりました。
勿論、「堅苦しい師弟関係を持ちたくない」と考えて会に入らない人はそれ以上にいます。いずれにしろ、もう流や会派の保障する肩書は通用していないのです。
人々の音楽的素養が低かった時代とは違うのですよ。
尺八のプロの場合、例外を除いて師匠もプロです。他の師匠についていて、「もっと上手くなりたい」と思った人がプロのもとに転門してくるからです。ですから、転門にウルサイこの世界でもプロの門下に入る一度の転門については何も言われません。
プロに習うと、我流でやっていた天狗の鼻がペシャンコになります。そこから尺八が本当の意味で面白くなります。
だって、将棋でオトナを撫で切りにしていた私が、大学の将棋部の2年生とやっても「子供扱い」にされるんですよ。
「上には上が有る」と実感したところから、「道」が始まりますね。ただし、ことは趣味ですから「気楽に楽しみたい」という人だって、楽しむ権利は平等です。
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