製管35年前。
- 2016/09/27
- 22:17
私の大学時代の後輩、後藤啓一と言いますが20年前にクモ膜下出血で40代半ばで死んでしまいました。彼のアサヒ堂カメラは中京地区に住んでいる人であれば皆知っているでしょう。
このアサヒ堂、80年代の半ばまでは名古屋の栄に有った、そこそこ売れていた普通のカメラ店にすぎませんでした。それを後藤は一躍、中京きっての大人気店にしてしまいました。
その秘密は「逆輸入」です。日本のカメラは国内では価格に統制をかけていましたが、輸出となると大巾な値引きを行なっていました。後藤は、ここに気がつきました。単純化して言うと一度輸出されたカメラを再度輸入すれば良いのです。
現地の輸入した業者にマージンを払っても国内より大分安い。後になると輸出も輸入も書類上の事だけで、輸送経費すらチャラにしてしまいました。
後藤は遊び好きで、海外にもショッチュウ言っていましたので、こういう奇策が思いつけたのです。真面目に仕事一途でやっている人には、こういう事は思いつきません。
大学時代は落第寸前の超劣等生でしたが、大學の文科系講義に疑問を持たず、セッセと出席していた人にも、こういうハチャメチャ発想は無理です。
後から見れば「コロンブスの卵」ですが、ここで大当たりをとった以前にも、様々なイカガワシイビジネスを手掛けており、そのつど利益を出していました。たまたまホームランが飛び出したわけではありません。
気質の根が似ているせいか私とは話が合って、よく一緒にハチャメチャをやりました。若い頃に彼と行った国、やった仕事、今も全部憶えています。
私が尺八の安価提供の試案を話すと彼は「相場の何割安ですか。半値以下、それならいけますでしょう」と言いました。彼くらいですよ、そう言ったのは。「出来ますか?」なんて今さら私相手に言う分けないでしょう。出来るからこそ話すんです。
彼以外は良く言えば慎重、はっきり言えばリスクを大きく見る消極的意見ばかりです。
凄く素朴な感想としては「そんな事が出来るくらいなら、誰かがトックにやっている」。それより少々マシな意見として「尺八みたいなニーズが無い物では、すぐ行きわたりがおきるのでは」とも言われました。
さて、私が見ていた1980年頃の尺八製造業界です。
プロの製管師は約50人。うち三分の一は高額所得者。尺八は年間百本以上売れ、しかも一本の価格は30才くらいのサラリーマンの月給と同じ。経費など2割も無いですよ。
そして、その下のランクでもソコソコの所得を挙げていました。ここまでは良いですわな。世の「特殊技術者」は同様です。でも、次の事をどう考えますか?
修行一年、それでかなり上質の尺八を作ってプロとしてやっている人達の存在。О・ⅭさんとかI・Оさんとかですよ。
都山流楽会の斡旋尺八の納入価格は2万7千円。作り手は善村さん、桑原さん、西田さん、いずれも一流です。「出来るか?」なんて、いかにナンセンスな質問か分かるでしょう。
売れっ子になると自分とアシスタント一人で年間300~400本の尺八を作って売っていました。ですから年に100本もサラリーマンの月給並み価格で売れていれば、余力では安く作れたのです。
では何故そうしなかったか? 安い尺八ばかり売れてしまう。差が外見だけだと客に知られたくない。高収入にうかれた。
冗談ヌキに言いますが、30年前に邦星堂があと3つ有ったら、尺八界はこれほどオチブレテいなかったと思います。
後藤に見えていた景色。その頃はバブル崩壊の前で、今の様に右をむいても左を見ても、安売り店、量販チエーン、回転寿司ばかりではない時代でしたから、日本の消費者はまだ純情でした。世の中の仕組みに、さほど疑いの目を向けず、「高い物には、それだけの事が有るに違いない」と思われていた時代でした。
このアサヒ堂、80年代の半ばまでは名古屋の栄に有った、そこそこ売れていた普通のカメラ店にすぎませんでした。それを後藤は一躍、中京きっての大人気店にしてしまいました。
その秘密は「逆輸入」です。日本のカメラは国内では価格に統制をかけていましたが、輸出となると大巾な値引きを行なっていました。後藤は、ここに気がつきました。単純化して言うと一度輸出されたカメラを再度輸入すれば良いのです。
現地の輸入した業者にマージンを払っても国内より大分安い。後になると輸出も輸入も書類上の事だけで、輸送経費すらチャラにしてしまいました。
後藤は遊び好きで、海外にもショッチュウ言っていましたので、こういう奇策が思いつけたのです。真面目に仕事一途でやっている人には、こういう事は思いつきません。
大学時代は落第寸前の超劣等生でしたが、大學の文科系講義に疑問を持たず、セッセと出席していた人にも、こういうハチャメチャ発想は無理です。
後から見れば「コロンブスの卵」ですが、ここで大当たりをとった以前にも、様々なイカガワシイビジネスを手掛けており、そのつど利益を出していました。たまたまホームランが飛び出したわけではありません。
気質の根が似ているせいか私とは話が合って、よく一緒にハチャメチャをやりました。若い頃に彼と行った国、やった仕事、今も全部憶えています。
私が尺八の安価提供の試案を話すと彼は「相場の何割安ですか。半値以下、それならいけますでしょう」と言いました。彼くらいですよ、そう言ったのは。「出来ますか?」なんて今さら私相手に言う分けないでしょう。出来るからこそ話すんです。
彼以外は良く言えば慎重、はっきり言えばリスクを大きく見る消極的意見ばかりです。
凄く素朴な感想としては「そんな事が出来るくらいなら、誰かがトックにやっている」。それより少々マシな意見として「尺八みたいなニーズが無い物では、すぐ行きわたりがおきるのでは」とも言われました。
さて、私が見ていた1980年頃の尺八製造業界です。
プロの製管師は約50人。うち三分の一は高額所得者。尺八は年間百本以上売れ、しかも一本の価格は30才くらいのサラリーマンの月給と同じ。経費など2割も無いですよ。
そして、その下のランクでもソコソコの所得を挙げていました。ここまでは良いですわな。世の「特殊技術者」は同様です。でも、次の事をどう考えますか?
修行一年、それでかなり上質の尺八を作ってプロとしてやっている人達の存在。О・ⅭさんとかI・Оさんとかですよ。
都山流楽会の斡旋尺八の納入価格は2万7千円。作り手は善村さん、桑原さん、西田さん、いずれも一流です。「出来るか?」なんて、いかにナンセンスな質問か分かるでしょう。
売れっ子になると自分とアシスタント一人で年間300~400本の尺八を作って売っていました。ですから年に100本もサラリーマンの月給並み価格で売れていれば、余力では安く作れたのです。
では何故そうしなかったか? 安い尺八ばかり売れてしまう。差が外見だけだと客に知られたくない。高収入にうかれた。
冗談ヌキに言いますが、30年前に邦星堂があと3つ有ったら、尺八界はこれほどオチブレテいなかったと思います。
後藤に見えていた景色。その頃はバブル崩壊の前で、今の様に右をむいても左を見ても、安売り店、量販チエーン、回転寿司ばかりではない時代でしたから、日本の消費者はまだ純情でした。世の中の仕組みに、さほど疑いの目を向けず、「高い物には、それだけの事が有るに違いない」と思われていた時代でした。
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