プラスチック尺八は尺八の需要が高まると出てくる。これは当然ですわな。一番古いプラスチック尺八は何時出たのか、私は寡聞にして知りませんが、井上重美(初代井上江雲)が昭和10年代に作った物なんかは相当濫觴に近いのではないでしょうか。
この昭和10年代は尺八のピークの一つです。あまりにも入門者が多かったので、ついに竹の尺八では生産が需要を賄えなくなってしまいました。
次のピークは昭和30年代後半から始まり50年代の初めまで続きました。この時も尺八が売れまくり、何種類ものプラスチック尺八メーカーが出て来てましたが、この時代の物はあくまで竹尺八の代用品、性能的に満足のいくものは私が見聞した範囲では存在しませんでした。
この時代は、むしろ木製尺八の方が主流でしたね。これは野球のバットを作る技術の応用だそうです。野球のバットも中心には孔が開いていて、そこに芯が入っていました。その穴を、先へ行くほど細くなるテーパーリーマー型のドリルで穿ち、旋盤で外形を尺八の姿に削れば良いわけです。
木製尺八(以下、木管)の良い点は初期投資がプラスチック尺八(以下、プラ管)に比べて安い事です。そして、プラ管は金型費用が莫大なので、需要の少ない1尺8寸管以外の種類を生産できないという欠点が有るのに対して、木管はバットメーカーの業種転換であれば旋盤は有るので、後はテーパーリーマーだけの事ですから、どの寸法でも作り出せます。ですから寸法の異なる尺八が多数必要な民謡尺八が創りだした昭和30年代後半からの「第二次尺八ブーム」には、持ってこいの物だったのです。
私の知る限りでも昭和50年頃には十数社の木管製造会社が存在していました。
そして昭和51年頃になると、新大久保に有った日本通信教育センター(という名だったと思います)が膨大な宣伝費を投じて尺八の通信教育を始めます。ここで使用された尺八が今日の悠です。先行したプラ管とは比較にならない高性能で、これはもう竹の代替品と言うより新しい可能性をもった楽器です。
悠は最初の3年がピークで3万とも5万とも言われる数を販売しましたが、後になると宣伝費が膨大であるだけに段々採算に合わなくなり、サンザン利益を挙げた通信教育会社から開発者の永瀬憲治さんが権利を買い戻しました。
買い戻してもしばらくはプラ管は売れなかったですね。前には、あれほど有った同業他社も姿を消していました。
次に悠がブレークするのは、この20年弱です。要因はインターネットの普及でした。もともと尺八の潜在需要というものは、そうバカにしたものでもなかったのですが、竹製尺八の価格の高さが敬遠されていたところに、「悠というプラスチック尺八は素晴らしいよ」とインターネット販売とクチコミで情報が拡がり、それで日本ばかりか世界中で尺八を始める人が増えたのです。
現在、「尺八ブーム」が始まりかけていますが、その最大功労者がインターネット、次が悠です。
プラスチック尺八は日本でこそ競合他社があまり出てこないですが、金型を安く作れる中国では、すでに複数のメーカーが存在しています。
プラ管製作は実は隠れた宝庫なんですよ。プラ管の成功は、一にも二にも性能にかかっています。宣伝はインターネットですから媒体に差が無い分、初期投資を抑えて、性能や品質(主として外見)の優れた物を作り出せさえすれば、金型代や、そのプラ管を使用した有名尺八家達による演奏をユーチューブで流す費用(ギャラ)、その他諸費用などが、仮に5百万円かかったとしても、実際今ならば1年で初期投資を回収するのは難しくないでしょう。
中国製のプラ管は私は性能的に悪いとは思いません。ただ彼らは「尺八を売るという事はどういう事か」を今の段階では、まだ十分に理解していないのです。
しかし、張聴のプラ管は、私が販売協力した4年前の上海のミュージックチャイナでは20本売れましたから、もう初期投資は回収し終わっているのかも知れません。
神崎憲さんに当時聞いた所では、張聴さんのプラ管の金型は200万円程度であったと言う事でした。それが1本約5千円、中国人の購買感覚では日本人が2~3万と感じるくらいの金額での20本ですが、その時だけで10万円は回収しているのです。
このプラスチック尺八の躍進を脅威だと感じる製管師には明日は有りません。「第三次尺八ブーム」の先兵。やがて、いやもう、その恩恵は自分達に及んでくる、こう捉える人にこそ未来は微笑みます。
ではプラスチック尺八の将来は明るいのか? さあ、どうでしょう。やがては3Ⅾプリンター製作に取って代わられると私は思っています。
「3Ⅾは量産が利かない」ですって、素人の意見ですね。まあ良いでしょう。3Ⅾ製作の尺八はすでに出来ていますが、これが産業ベースに乗った時、尺八にも、あるいはフルートが木から金属に変わった様な劇的変化が起こるかも知れません。
スポンサーサイト