駄菓子屋
- 2016/10/09
- 22:10
昭和30年代までは何処の街にも駄菓子屋というものが有りました。タイガイ60を過ぎた老夫婦が営んでおり、勿論のこと従業員などいない。
当時の日本人は若い頃に肉、魚、乳製品などの体にやさしい食べ物を摂っていなかったので、60というと老人。外見もシナビテいました。何しろ55で停年、また年金も無いのが普通でしたので、子供の世話になれなければ自活の道を見つけなければなりませんでした。
そこで零細な資本で始められるビジネスとして駄菓子屋を営む人がいたんです。普通の家でも道路に面してさえいれば4畳半程度のスペースから営業できますし、設備投資も宣伝費も不要です。また仕入れの苦労も有りません。
商品は子供の健康などに対する配慮はイッサイ無し。人工甘味料と合成保存料は気前よく山ほど使ってありますから、何しろ腐らないのです。ですから場所の提供と販売さえすれば商品は無くなっただけ業者が補充して行ってくれます。精算も売れた分だけです。
当時、昭和35,6年頃ですから子供のコズカイなんて1日10円くらいで、20円もらっていた子は少数です。ほとんど貰えない子もいました。「教育の為に与えない」と言う親なんていなかったですね。当時は10円すら子供にたまにしか上げられない親もいたんです。
子供だって紙芝居もあれば大きな物が買いたくて貯金したりもします。駄菓子屋でばかり金を使えませんや。それでも駄菓子屋で駄菓子はじめビー玉、メンコなんかも買っていましたが、それでイッタイ幾らになっていたんでしょう。
10円玉を握りしめて1日に来る子供の数が50人くらいとして、掛ける10円ですから売り上げが1日5百円、エー、オイ計算が違ってやしねえかい? だったら利益が200円じゃないか。休みは無いのが当たり前だから月に直して6000円。えー、えー、。国家公務員の初任給の半額だぜ。しかもボーナスだってないし・・・。
でも何もしなければゼロですからね。「子供と接すると童心に帰れて楽しいからだろう」ですって。貴方、現実の昭和36年を知りませんな。そんなファンタジーは、マルクス、レーニンには子供並に純真だった日教組の「熱誠教師達」だって抱いちゃいませんでしたぜ。当時の子供の正式名をガキというんです。言動もガキの名にはじませんでしたわ。
「オッちゃん、このクジ、スカ(はずれ)ばっかじゃないの、誤魔化してんじゃないの?」、「ナニ言ってんだ、そんなハズがないだろう」、「スカを殖やして浮いた分、自分達で喰ってるんだろう」、「ぶん殴るぞ、外れたらサッサと帰れ」。
こういうの何時もの事ですよ。言っときますけどジャレてるんじゃないですよ。マジなんです。それに、かなりの高確率でスカを殖やして浮いた菓子をバアサンと喰ってましたよ。当時は何処の家にもミョウバンは有りましたからね。まさかそれが主食だったんじゃねえだろうな・・・。
この駄菓子屋は昭和40年代にも細々と有りましたが、その後はコンビニが取って代わりましたかね。駄菓子は今でも有りますが、かつての物とは外見が同じだけです。それと無難な物しか残っていないですね。
さあてねえ、こういった昭和30年代までのビジネスって基本的には邦楽教授と一緒なんですよね。戦前ですと女の子に習い事をさせるのが生活に余裕のある家では普通でした。
結婚してもご主人と若くして死別する確率たるや現代の比ではないです。ですから、不幸にして御主人に先立たれても生活の足しになる様に、若い時に箏や清元とか常磐津とか習わしたんです。「芸は身を助く」とはこの事です。
私も3人の子に小学校時代に尺八の下作りをアルバイトで仕込みました。もし、将来就職してもリストラとかで失職する事が有り得ます。その時に次の仕事が見つかるまでのシノギとして、邦星堂でアルバイトが出来るようにです。
もし仕事の給与が満足いかない場合にもサイドで尺八仕事は有効です。この「生活費の足しになれば良い」という発想が尺八では大切ではないですかね。
尺八オンリーで生活の可否を云々するから「ダメだ」という事になるんです。
当時の日本人は若い頃に肉、魚、乳製品などの体にやさしい食べ物を摂っていなかったので、60というと老人。外見もシナビテいました。何しろ55で停年、また年金も無いのが普通でしたので、子供の世話になれなければ自活の道を見つけなければなりませんでした。
そこで零細な資本で始められるビジネスとして駄菓子屋を営む人がいたんです。普通の家でも道路に面してさえいれば4畳半程度のスペースから営業できますし、設備投資も宣伝費も不要です。また仕入れの苦労も有りません。
商品は子供の健康などに対する配慮はイッサイ無し。人工甘味料と合成保存料は気前よく山ほど使ってありますから、何しろ腐らないのです。ですから場所の提供と販売さえすれば商品は無くなっただけ業者が補充して行ってくれます。精算も売れた分だけです。
当時、昭和35,6年頃ですから子供のコズカイなんて1日10円くらいで、20円もらっていた子は少数です。ほとんど貰えない子もいました。「教育の為に与えない」と言う親なんていなかったですね。当時は10円すら子供にたまにしか上げられない親もいたんです。
子供だって紙芝居もあれば大きな物が買いたくて貯金したりもします。駄菓子屋でばかり金を使えませんや。それでも駄菓子屋で駄菓子はじめビー玉、メンコなんかも買っていましたが、それでイッタイ幾らになっていたんでしょう。
10円玉を握りしめて1日に来る子供の数が50人くらいとして、掛ける10円ですから売り上げが1日5百円、エー、オイ計算が違ってやしねえかい? だったら利益が200円じゃないか。休みは無いのが当たり前だから月に直して6000円。えー、えー、。国家公務員の初任給の半額だぜ。しかもボーナスだってないし・・・。
でも何もしなければゼロですからね。「子供と接すると童心に帰れて楽しいからだろう」ですって。貴方、現実の昭和36年を知りませんな。そんなファンタジーは、マルクス、レーニンには子供並に純真だった日教組の「熱誠教師達」だって抱いちゃいませんでしたぜ。当時の子供の正式名をガキというんです。言動もガキの名にはじませんでしたわ。
「オッちゃん、このクジ、スカ(はずれ)ばっかじゃないの、誤魔化してんじゃないの?」、「ナニ言ってんだ、そんなハズがないだろう」、「スカを殖やして浮いた分、自分達で喰ってるんだろう」、「ぶん殴るぞ、外れたらサッサと帰れ」。
こういうの何時もの事ですよ。言っときますけどジャレてるんじゃないですよ。マジなんです。それに、かなりの高確率でスカを殖やして浮いた菓子をバアサンと喰ってましたよ。当時は何処の家にもミョウバンは有りましたからね。まさかそれが主食だったんじゃねえだろうな・・・。
この駄菓子屋は昭和40年代にも細々と有りましたが、その後はコンビニが取って代わりましたかね。駄菓子は今でも有りますが、かつての物とは外見が同じだけです。それと無難な物しか残っていないですね。
さあてねえ、こういった昭和30年代までのビジネスって基本的には邦楽教授と一緒なんですよね。戦前ですと女の子に習い事をさせるのが生活に余裕のある家では普通でした。
結婚してもご主人と若くして死別する確率たるや現代の比ではないです。ですから、不幸にして御主人に先立たれても生活の足しになる様に、若い時に箏や清元とか常磐津とか習わしたんです。「芸は身を助く」とはこの事です。
私も3人の子に小学校時代に尺八の下作りをアルバイトで仕込みました。もし、将来就職してもリストラとかで失職する事が有り得ます。その時に次の仕事が見つかるまでのシノギとして、邦星堂でアルバイトが出来るようにです。
もし仕事の給与が満足いかない場合にもサイドで尺八仕事は有効です。この「生活費の足しになれば良い」という発想が尺八では大切ではないですかね。
尺八オンリーで生活の可否を云々するから「ダメだ」という事になるんです。
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