改元にまつわる無駄話
- 2016/10/11
- 18:34
あれは昭和天皇が亡くなった直後ですから、1989年の日本三曲協会の新年会での事です。天皇死去の直後ですから、いつもの新年の祝賀に代えて黙祷が有り、ひき続いて恒例の来賓挨拶となりました。
来賓の挨拶はいつも3人で、その一人が金田一春彦先生ですが、その紹介の時に司会のYさんは「もしかして新元号をお決めになった御本人かも知れない金田一先生・・・云々」と言ったので、金田一先生はニガワライしました。
平成は『史記』か『書経』からの出典と言われ、今日では、東大名誉教授だった山本達郎さんの提案というのが定説です。他に候補として修文、正化が有ったと言われます。
後の雑談タイムにYさんは金田一先生に「だけど先生、新元号が平成だって私は去年のうちに聞いていましたよ。どうなっているんですか?」と訊いていましたが、ここでも先生は「さあ」とニガワライで口を割りませんでした。
今では閣僚の中に口の軽いのがいて「ここだけの話し」でペラついた事は誰でも知っています。昔から日本は「陰謀の出来ない国」と言われています。酒に弱い民族なので、たとえクーデターでも女のいる酒席だと、酔って悲憤慷慨のあげく、何でもペラペラしゃべるからです。
どういうわけか元号のスクープはマスコミにとって手柄になるらしく、大正天皇が亡くなった直後も毎日新聞が「新元号は光文」といち早く報じ、結果、歴史的誤報となりました。この雪辱を果たしたのは平成のスクープに成功した1989年1月7日、実に63年ぶりでした。
今、天皇は生前退位を口にされていますが、そうなると改元が行われるのでしょうね。「一世一元」の決まりでも生前退位改元は乾隆ー嘉慶の前例もありますし・・・。
昭和天皇が亡くなる数か月前から様々な催しものが自粛という事で中止になりました。世はバブルの真っただ中に在りましたが、邦楽界には自粛による不況の風が吹いていましたね。
当時、プロ尺八家達は「参っちゃたヨ、演奏会が中止になって」とボヤイテいました。こういう事は、生前改元であれ崩御後の改元であれ二度と起こらないでしょう。今の時代になってしまっては、そもそも自粛を言い出す人がいませんよ。
ところで平成の元号については、もう一人「この人の案」と言われる人物がいるのです。陽明学の大家として知られる安岡正篤です。改元時に総理大臣だった竹下登の証言ですから一定の信憑性が有るでしょう。
安岡は昭和58年に死んでいますから、という事は元号候補はかなり前から内定しているのでしょうね。
安岡には40も年上の門弟がいました。海軍大将の八代六郎です。ハタチそこそこの安岡に60を超えた有名な軍人が師事するのですから、チョット不思議な話ですね。
八代が日露戦争の初期、仁川沖海戦の前に艦長を務める巡洋艦・浅間の艦上で尺八を吹いたエピソードは、私の若い頃には誰でも知っていました。
こういう昔話もスンナリ通じたのは昭和までですね。
来賓の挨拶はいつも3人で、その一人が金田一春彦先生ですが、その紹介の時に司会のYさんは「もしかして新元号をお決めになった御本人かも知れない金田一先生・・・云々」と言ったので、金田一先生はニガワライしました。
平成は『史記』か『書経』からの出典と言われ、今日では、東大名誉教授だった山本達郎さんの提案というのが定説です。他に候補として修文、正化が有ったと言われます。
後の雑談タイムにYさんは金田一先生に「だけど先生、新元号が平成だって私は去年のうちに聞いていましたよ。どうなっているんですか?」と訊いていましたが、ここでも先生は「さあ」とニガワライで口を割りませんでした。
今では閣僚の中に口の軽いのがいて「ここだけの話し」でペラついた事は誰でも知っています。昔から日本は「陰謀の出来ない国」と言われています。酒に弱い民族なので、たとえクーデターでも女のいる酒席だと、酔って悲憤慷慨のあげく、何でもペラペラしゃべるからです。
どういうわけか元号のスクープはマスコミにとって手柄になるらしく、大正天皇が亡くなった直後も毎日新聞が「新元号は光文」といち早く報じ、結果、歴史的誤報となりました。この雪辱を果たしたのは平成のスクープに成功した1989年1月7日、実に63年ぶりでした。
今、天皇は生前退位を口にされていますが、そうなると改元が行われるのでしょうね。「一世一元」の決まりでも生前退位改元は乾隆ー嘉慶の前例もありますし・・・。
昭和天皇が亡くなる数か月前から様々な催しものが自粛という事で中止になりました。世はバブルの真っただ中に在りましたが、邦楽界には自粛による不況の風が吹いていましたね。
当時、プロ尺八家達は「参っちゃたヨ、演奏会が中止になって」とボヤイテいました。こういう事は、生前改元であれ崩御後の改元であれ二度と起こらないでしょう。今の時代になってしまっては、そもそも自粛を言い出す人がいませんよ。
ところで平成の元号については、もう一人「この人の案」と言われる人物がいるのです。陽明学の大家として知られる安岡正篤です。改元時に総理大臣だった竹下登の証言ですから一定の信憑性が有るでしょう。
安岡は昭和58年に死んでいますから、という事は元号候補はかなり前から内定しているのでしょうね。
安岡には40も年上の門弟がいました。海軍大将の八代六郎です。ハタチそこそこの安岡に60を超えた有名な軍人が師事するのですから、チョット不思議な話ですね。
八代が日露戦争の初期、仁川沖海戦の前に艦長を務める巡洋艦・浅間の艦上で尺八を吹いたエピソードは、私の若い頃には誰でも知っていました。
こういう昔話もスンナリ通じたのは昭和までですね。
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