草食の時代
- 2016/10/12
- 23:07
「僕、本当は尺八のプロになろうと思ってなかったんだよ」。青木鈴慕先生がこの手の事を言い出したら、間違っても「またまた・・・」なんてチャチャ(半畳)を入れるのは禁物です。頭が良くて鋭い人だけに、間の抜けた対応を一番嫌います。
先生は気心の知れた人間相手にはかなりオシャベリになるのですが、それでも心の奥を話す事は、それほど多い事ではありません。
そういう時は、こちらも気を入れて聞かないと、すぐ怒って話は脱線して始めの方向と関係無いところに行ってしまいます。
「でも先生は16才の時すでに東京新聞のコンクールで鹿の遠音を吹いて、最優秀賞を御取りになりましたよね、それでどうしてですか?」 当然合いの手を入れますな。
青木先生は9人兄弟の8番目です。初代の青木鈴慕は自分の後継として長男の鈴督先生を心積りしていたのです。それが肺結核になってしまいプロを断念せざるを得なくなりました。青木先生の18才上で、十数年前に亡くなりましたが、確かにパワーには欠けましたが、上品な素晴らしい技術の方で、「こんな良い地歌ってチョット吹けないよね」と鈴慕会の腕に覚えのある人達すら感嘆させていました。
鈴瞥先生がプロの道を断念なさって後、戦中戦後の厳しい世相で初代鈴慕は息子達に生活の苦労をさせたくなかったんですね、繰り返し「尺八のプロになってはいけない」と言っていたそうです。
ですから早稲田大学に入学した青木先生は「卒業したら社会科の教師になるつもりだった」とおっしゃいました。勿論、基本的に尺八キチガイですから吹くのはやめなかったと思います。
事態が急変したのは昭和30年、先生が20才の時に初代が亡くなってです。
「戦後の復興期でしょ、まだまだ生活は厳しかったよ。大学の月謝だってどうやって払おうかという状態でしたからね。人にはどう見えていたかは知りませんがね。戦前の良い頃だって、うちは凄い貧乏暮らしだったよ」。
青木先生ほどの凄玉でも、生活していく事を考えると悩む世相だったんです。それで考えたあげく、米川文子先生に相談し、結局大学を中退してプロの道に進みました。
筆頭弟子の竹内鈴白さんに言わせると、「だって初めの頃は弟子と言えばボクとボクの兄貴、あと1人か2人だよ。食えてたわけはないよ」です。
横山勝也先生も高校を卒業した後、6年間サラリーマンをしていた事は良く知られています。
山口五郎先生が尺八家としてエリートコースに乗っていたのは、御本人のお人柄と吹奏力のなせる業で、お父さんの四郎先生の時代には大変だったと聞いています。プロ尺八家は他人の目に見える所だけは取り繕いますが、内実はかなり厳しくて、ある時、家で尺八家達と会合していたところ、借金取りに押しかけられて、「皆の前で恥をかかせた。この上はオマエを殺してオレも死ぬ」と日本刀を持ち出して借金取りを追い回したと言います。
二代鈴慕、横山勝也、山口五郎。この方達は尺八家として、非常に恵まれた時代を生きたのですが、それって結果論ですよ。それを期待してプロになったわけじゃありませんや。
ですから青木先生の述懐は続きます。「その頃を考えたら本当に今は夢みたいですよ」。
日本が経済的成功をおさめた時代になると、新しくプロになる人は大学邦楽の出身者ばかりになります。森田柊山さんのように東大すらいます。
昭和40年代は、まだ大卒はハバが効きましたし、就職に何の苦労もなかった時代です。私だって法政ですから、学生時代に厄介になっていたヤクザの親分から「アンタは将来、博士になるか大臣になるか社長なるか分からない人だ。だからヤクザをやめたくなったら、すぐにやめるんだよ」と言っていただいたくらいです。
その時代に「金の為」にプロ尺八家になった人なんていません。皆、好きでなったんです。ですけど前の人達が開いた道には、まだ空きスペースが有るとの期待値が有りました。ですから、「師匠の首を取ってやる」という覇気に欠けるんですよ。
情けない。だからユルイんですわ。尺八界は銭ゲバや鬼のいない育ちの良い人間が、それでも大通りを歩ける世界でした。
その次の時代です。ネプチューンの様に最初から邦楽界をアテにしない。三塚幸彦さんみたいに「邦楽を離脱しないと自分の世界を構築できない」、そうやって自分の地平を開いたのは。
今後は人が「金の為」に人が入ってくるガツガツした世界にしたいものだとマジ思いますよ。そうでなければ次の時代の人に「美しい伝統」と言わせるモノなんか創り出せませんよ。
先生は気心の知れた人間相手にはかなりオシャベリになるのですが、それでも心の奥を話す事は、それほど多い事ではありません。
そういう時は、こちらも気を入れて聞かないと、すぐ怒って話は脱線して始めの方向と関係無いところに行ってしまいます。
「でも先生は16才の時すでに東京新聞のコンクールで鹿の遠音を吹いて、最優秀賞を御取りになりましたよね、それでどうしてですか?」 当然合いの手を入れますな。
青木先生は9人兄弟の8番目です。初代の青木鈴慕は自分の後継として長男の鈴督先生を心積りしていたのです。それが肺結核になってしまいプロを断念せざるを得なくなりました。青木先生の18才上で、十数年前に亡くなりましたが、確かにパワーには欠けましたが、上品な素晴らしい技術の方で、「こんな良い地歌ってチョット吹けないよね」と鈴慕会の腕に覚えのある人達すら感嘆させていました。
鈴瞥先生がプロの道を断念なさって後、戦中戦後の厳しい世相で初代鈴慕は息子達に生活の苦労をさせたくなかったんですね、繰り返し「尺八のプロになってはいけない」と言っていたそうです。
ですから早稲田大学に入学した青木先生は「卒業したら社会科の教師になるつもりだった」とおっしゃいました。勿論、基本的に尺八キチガイですから吹くのはやめなかったと思います。
事態が急変したのは昭和30年、先生が20才の時に初代が亡くなってです。
「戦後の復興期でしょ、まだまだ生活は厳しかったよ。大学の月謝だってどうやって払おうかという状態でしたからね。人にはどう見えていたかは知りませんがね。戦前の良い頃だって、うちは凄い貧乏暮らしだったよ」。
青木先生ほどの凄玉でも、生活していく事を考えると悩む世相だったんです。それで考えたあげく、米川文子先生に相談し、結局大学を中退してプロの道に進みました。
筆頭弟子の竹内鈴白さんに言わせると、「だって初めの頃は弟子と言えばボクとボクの兄貴、あと1人か2人だよ。食えてたわけはないよ」です。
横山勝也先生も高校を卒業した後、6年間サラリーマンをしていた事は良く知られています。
山口五郎先生が尺八家としてエリートコースに乗っていたのは、御本人のお人柄と吹奏力のなせる業で、お父さんの四郎先生の時代には大変だったと聞いています。プロ尺八家は他人の目に見える所だけは取り繕いますが、内実はかなり厳しくて、ある時、家で尺八家達と会合していたところ、借金取りに押しかけられて、「皆の前で恥をかかせた。この上はオマエを殺してオレも死ぬ」と日本刀を持ち出して借金取りを追い回したと言います。
二代鈴慕、横山勝也、山口五郎。この方達は尺八家として、非常に恵まれた時代を生きたのですが、それって結果論ですよ。それを期待してプロになったわけじゃありませんや。
ですから青木先生の述懐は続きます。「その頃を考えたら本当に今は夢みたいですよ」。
日本が経済的成功をおさめた時代になると、新しくプロになる人は大学邦楽の出身者ばかりになります。森田柊山さんのように東大すらいます。
昭和40年代は、まだ大卒はハバが効きましたし、就職に何の苦労もなかった時代です。私だって法政ですから、学生時代に厄介になっていたヤクザの親分から「アンタは将来、博士になるか大臣になるか社長なるか分からない人だ。だからヤクザをやめたくなったら、すぐにやめるんだよ」と言っていただいたくらいです。
その時代に「金の為」にプロ尺八家になった人なんていません。皆、好きでなったんです。ですけど前の人達が開いた道には、まだ空きスペースが有るとの期待値が有りました。ですから、「師匠の首を取ってやる」という覇気に欠けるんですよ。
情けない。だからユルイんですわ。尺八界は銭ゲバや鬼のいない育ちの良い人間が、それでも大通りを歩ける世界でした。
その次の時代です。ネプチューンの様に最初から邦楽界をアテにしない。三塚幸彦さんみたいに「邦楽を離脱しないと自分の世界を構築できない」、そうやって自分の地平を開いたのは。
今後は人が「金の為」に人が入ってくるガツガツした世界にしたいものだとマジ思いますよ。そうでなければ次の時代の人に「美しい伝統」と言わせるモノなんか創り出せませんよ。
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