三曲ばなれ
- 2016/10/20
- 23:18
三曲の世界で、箏と三弦は分離して区別せずに、糸方と呼ばれます。私の若い頃はまだ三曲合奏は全盛期の名残が有りまして、地歌、箏曲の名手達が舞台をつとめていました。
米川文子、菊原初子、藤井久仁江といった人達は箏も三弦も聴きましたが、井上道子は三弦のみ、小林玉枝は箏しか聴いたことがありません。そちらにオーダーが集中して、何時の間にか専門化したんでしょうね。
地歌はそもそも三弦曲ですから、箏と三弦とでは三曲合奏の場合は三弦が中央に位置します。箏が右、尺八が左とは共通の約束事なんでしょうか?
決定的なのは尺八だけは無いなら無いで別に支障が無いということです。
ところで尺八に対して糸方は何倍くらいの規模が有るんでしょうか? その一つの手掛かりとして日本三曲協会の名簿が有ります。それを基準にして考えると、糸方は尺八の6,7倍です。
ただ印象としては、もっと多くて10倍はいるようにも感じます。高校の部活を入れて考えると、さらに多くなります。高校の部活で尺八は無いのに、箏は多くはないものの有りますものね。
でも私の若い頃ですでに「地歌が好き」と言う女の子なんて、実は珍しかったですけど。「お稽古ごと」という意味不明の話しにスリカエテいましたよ。
箏は戦前までは金持ちのお嬢さんの習い事でした。それが戦後の経済成長で、普通の家庭の主婦が、自分の少女時代の憧れの対象だった箏を娘に習わせたというのが、昭和30,40年代に箏曲界が急激に大型化した基本要因です。
エ~、「地歌や箏曲の音楽性に皆が気がついた」。エ~、まあ冗談でしょうから良いですわ。
1970年前後、私の大学時代には尺八の演奏で生活するというのは、民謡を別にした古典系では箏の会に呼んでもらうという事と、ほぼイコールでした。
歌謡曲の伴奏は村岡実、坂田誠山の二人だけ。洋楽ジャンルで普通に楽器として声がかかるのも山本邦山、宮田耕八朗、坂田誠山くらいでしたね。
その意味で糸方はプロ尺八家の命綱だったのです。偉大な邦山先生だって、若い頃は地盤の無い東京で正派の支えが無かったら生活するのは大変でしたよ。
同じく横山勝也も地盤が無く「10年は喰えなかった」とハッキリおっしゃいました。
この尺八家を食べさせていた糸方の場合、たくさんの弟子の「舞台料」という演奏会用割り当て金が源泉で、チケットが売れるわけではありません。そもそも温習会の多くは入場無料です。
尺八は尺八で、世話になった糸方の先生を自分の会に呼んだりチケット販売に強力したりして、少しは「御返し」をするわけですが、勿論、全部なんか返せません。糸方も「それで良し」としていました。
この頼りになった糸方の世界も縮小の一途ですし、もう盛り返さない事は誰でも分かっていますし、残る部分もすでに特定の尺八家の指定席と化しています。ダイタイからして私の若い頃から、すでに指定席でした。若手と言われる人達は、有力な尺八家が回してくれる仕事やスケジュール的に出来ない演奏会が主な仕事でした。
その頃ですと、大きな糸方の会がタクサン有りましたし、舞台料が多く集まっていたので、複数の尺八を舞台に上げる余裕も有りましたし・・・。
ですから教授産業としての終焉が邦楽に来た以上、もう新しい道を尺八も探さないとプロに新しくくなるなんて無理なんですよ。
肝心な話です。邦楽に「聴衆」はいなかった。それでやって来れたのは「伝統」を売りにした教授産業だったからです。弟子という、いわば畑からあがる作物がプロの間で分けられていたにすぎません。これからは実演産業ですから、聴く人を無視する様な事をしていれば、オシマイなんですよ。
米川文子、菊原初子、藤井久仁江といった人達は箏も三弦も聴きましたが、井上道子は三弦のみ、小林玉枝は箏しか聴いたことがありません。そちらにオーダーが集中して、何時の間にか専門化したんでしょうね。
地歌はそもそも三弦曲ですから、箏と三弦とでは三曲合奏の場合は三弦が中央に位置します。箏が右、尺八が左とは共通の約束事なんでしょうか?
決定的なのは尺八だけは無いなら無いで別に支障が無いということです。
ところで尺八に対して糸方は何倍くらいの規模が有るんでしょうか? その一つの手掛かりとして日本三曲協会の名簿が有ります。それを基準にして考えると、糸方は尺八の6,7倍です。
ただ印象としては、もっと多くて10倍はいるようにも感じます。高校の部活を入れて考えると、さらに多くなります。高校の部活で尺八は無いのに、箏は多くはないものの有りますものね。
でも私の若い頃ですでに「地歌が好き」と言う女の子なんて、実は珍しかったですけど。「お稽古ごと」という意味不明の話しにスリカエテいましたよ。
箏は戦前までは金持ちのお嬢さんの習い事でした。それが戦後の経済成長で、普通の家庭の主婦が、自分の少女時代の憧れの対象だった箏を娘に習わせたというのが、昭和30,40年代に箏曲界が急激に大型化した基本要因です。
エ~、「地歌や箏曲の音楽性に皆が気がついた」。エ~、まあ冗談でしょうから良いですわ。
1970年前後、私の大学時代には尺八の演奏で生活するというのは、民謡を別にした古典系では箏の会に呼んでもらうという事と、ほぼイコールでした。
歌謡曲の伴奏は村岡実、坂田誠山の二人だけ。洋楽ジャンルで普通に楽器として声がかかるのも山本邦山、宮田耕八朗、坂田誠山くらいでしたね。
その意味で糸方はプロ尺八家の命綱だったのです。偉大な邦山先生だって、若い頃は地盤の無い東京で正派の支えが無かったら生活するのは大変でしたよ。
同じく横山勝也も地盤が無く「10年は喰えなかった」とハッキリおっしゃいました。
この尺八家を食べさせていた糸方の場合、たくさんの弟子の「舞台料」という演奏会用割り当て金が源泉で、チケットが売れるわけではありません。そもそも温習会の多くは入場無料です。
尺八は尺八で、世話になった糸方の先生を自分の会に呼んだりチケット販売に強力したりして、少しは「御返し」をするわけですが、勿論、全部なんか返せません。糸方も「それで良し」としていました。
この頼りになった糸方の世界も縮小の一途ですし、もう盛り返さない事は誰でも分かっていますし、残る部分もすでに特定の尺八家の指定席と化しています。ダイタイからして私の若い頃から、すでに指定席でした。若手と言われる人達は、有力な尺八家が回してくれる仕事やスケジュール的に出来ない演奏会が主な仕事でした。
その頃ですと、大きな糸方の会がタクサン有りましたし、舞台料が多く集まっていたので、複数の尺八を舞台に上げる余裕も有りましたし・・・。
ですから教授産業としての終焉が邦楽に来た以上、もう新しい道を尺八も探さないとプロに新しくくなるなんて無理なんですよ。
肝心な話です。邦楽に「聴衆」はいなかった。それでやって来れたのは「伝統」を売りにした教授産業だったからです。弟子という、いわば畑からあがる作物がプロの間で分けられていたにすぎません。これからは実演産業ですから、聴く人を無視する様な事をしていれば、オシマイなんですよ。
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