切り札の無い時代
- 2016/11/17
- 09:06
大河ドラマを見なくなって20年くらいになりますかね。タイガイの大河は最初の3回くらいは見るのですよ。でも続けてみたいほどのドラマは有りません。
もともと大河の場合は、ほとんどのモノが細かいエピソードはトモカク、大筋は自体は決まっていますから、「結末はどうなるのだろう?」は無いわけです。
高校時代までは1年50話のうち40話くらい、それ以後も20話近くは見ていたと思います。時間が合えば見るという感じでしたね。途中抜かしても内容が繫がるのが大河の利点と言えば利点ですかね。
1980年以前はテレビは自分で録画しておく事が出来なかったですからね、考えてみたら不便なものでしたわ。
現在では考えられないですが、昔は民放でも1年間50話、または半年の大河ドラマが有ったんです。大学生では、もう見てられないレベルの物がほとんど(私見では全部)でしたね。はっきり「中学生以下と停年以後の人しか見ない」と対象設定がなされていました。
NHKのは日曜の夜、それと当時は人材、機材では民放に圧倒的な差をつけていましたし、豊富な資金と人脈で豪華キャストを揃える事も出来ただけに、サラリーマン世代にまで視聴者を期待出来ました。
前はテレビは視聴率20パーセントを目標にしていましたが今は「15で良し」とするようになりました。こういう具合になってくると、あとは急速な細分化が起こります。
電波法をたてにとって、政治家がテレビをコントール出来る様な時代の完全終焉は間近いのです。
尺八でもそうですが、ソフトの統制がもう無理だとは、実は頑固な人にも分かっています。ただ、「それを認めてはイカン」という別の趣味性を強固に保持している、つまり「それも趣味」なのですわ。
現実には、もう30年前には尺八のプロ演奏家の1割くらいは「古典をやったって食えないですよ」と広言していましたが、今では言うまでも無い事態になりました。
でも、それに代わるソフトが何か?そう聞かれたら困りますな。そう、もう決定的な切り札ソフトって無いのです。ですからオリジナリティーとか創造力が勝負の分かれ目ですね。
勿論、古典も民謡も仕事自体は有ります。ただもう空いている椅子が無いのです。
もともと大河の場合は、ほとんどのモノが細かいエピソードはトモカク、大筋は自体は決まっていますから、「結末はどうなるのだろう?」は無いわけです。
高校時代までは1年50話のうち40話くらい、それ以後も20話近くは見ていたと思います。時間が合えば見るという感じでしたね。途中抜かしても内容が繫がるのが大河の利点と言えば利点ですかね。
1980年以前はテレビは自分で録画しておく事が出来なかったですからね、考えてみたら不便なものでしたわ。
現在では考えられないですが、昔は民放でも1年間50話、または半年の大河ドラマが有ったんです。大学生では、もう見てられないレベルの物がほとんど(私見では全部)でしたね。はっきり「中学生以下と停年以後の人しか見ない」と対象設定がなされていました。
NHKのは日曜の夜、それと当時は人材、機材では民放に圧倒的な差をつけていましたし、豊富な資金と人脈で豪華キャストを揃える事も出来ただけに、サラリーマン世代にまで視聴者を期待出来ました。
前はテレビは視聴率20パーセントを目標にしていましたが今は「15で良し」とするようになりました。こういう具合になってくると、あとは急速な細分化が起こります。
電波法をたてにとって、政治家がテレビをコントール出来る様な時代の完全終焉は間近いのです。
尺八でもそうですが、ソフトの統制がもう無理だとは、実は頑固な人にも分かっています。ただ、「それを認めてはイカン」という別の趣味性を強固に保持している、つまり「それも趣味」なのですわ。
現実には、もう30年前には尺八のプロ演奏家の1割くらいは「古典をやったって食えないですよ」と広言していましたが、今では言うまでも無い事態になりました。
でも、それに代わるソフトが何か?そう聞かれたら困りますな。そう、もう決定的な切り札ソフトって無いのです。ですからオリジナリティーとか創造力が勝負の分かれ目ですね。
勿論、古典も民謡も仕事自体は有ります。ただもう空いている椅子が無いのです。
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