一音成仏
- 2017/01/02
- 17:03
一音成仏は虚無僧研究会の会長・小菅大徹先生から「禅用語ですからイットンジョウブツと言うのが良いと思います」と教えていただきました。「本来の禅宗では使われていない」とか「普化宗などというものは禅宗では無い」とかの指摘は、この際ですから、どうでも良い事にします。
ともかく「尺八の一つの音にも心を込めて出す」という様な解釈で大きな間違いはないでしょう。
昔、京都大学の教授だった桑原武夫さんが「第二芸術論」という事を言い出しました。
俳句ですが、あんな短い文で現代人の心などは表現できない。それに良いも悪いも決めるのは派閥の論理。その証拠に大家の作の中に素人の俳句を混ぜ込んだら誰も分からなかったではないか。あんなモノは芸術では無く、強いて言えば第二芸術だ。
極く簡単に言えば、こういう事でしょう。
時代を感じますね。今の人なら「どうでも良い」と言うでしょう。好きならやれば良いし、好きでないならやらなければ良い、所詮人の意見は人の意見。エライ文化人が何を言ったところでオレには関係無い。そういった所でしょう。
俳句って良く知りませんが理屈をつけると幾らでもつけられますね。短くて個人の解釈の巾が大きいから、どうにでも解釈できますわ。
「古池や、蛙とびこむ・・・」の句は日本人なら誰でも、仮に粟田や古市の様な落第生でも知っているでしょう。ここに禅の人は小難しい解釈をつけていますが、私には分からないから結局「どうでも良い」。
素人の句を大家の作と言っても分からないのも事実でしょう。桑原さんが実験して実証していますからね。
私の周りにも俳句が好きで同好会を作っていたり、自費で自作句集を出して周囲に配っている人が何人もいます。その人達は皆好きで俳句を作っているわけで、アカデミーがどう規定しようと関心が無いですね。自作句集を出すほどの人は皆「第二芸術論」くらい知ってますわ。
尺八の「一音成仏」って俳句と似てませんか? モチ、口だけの人の方が多いとは思います。でも立証するスベが無いからファジーなままで良いと思います。
「一つの音にも生命を吹きこむ。だから、その人の達している段階は一音で分かる」。これ、私も外国人に尺八の魅力を説明する時に常に言ってます。「ハッタリだ~」だと、バカ野郎、ワシを誰だと思ってる。それに、あまりホントの事を言うもんじゃないよ。
尺八って俳句の「第二芸術」どころではなく、もっと酷い事を言われてきました。身内であるはずの邦楽学者の中にも、尺八は箏や三弦より一段低い位置ずけであると公然と言っていた人までいたくらいです。東大のKさんですよ。横山勝也先生は色を成して怒っていましたがね、私達の代だと怒っている者はいなかったですね。何をどう言おうと個人的な意見に過ぎないですよ。それで尺八のイメージが悪くなるわけでも無いし、実害が生じるわけでも無いですもの。少なくともKさんの影響力の範囲なら・・・。
邦楽学者でなく、よしんば強い影響力を持った音楽家であっても、その発言が主観または抽象的な価値判断の領域内に留まる間は、今は「個人的意見」で済みますが、主として洋楽畑からの技術的な指摘は真剣に受け止める必要が有ります。
それを「邦楽は洋楽とは違う」で無視した所は例外なく落ちぶれました。洋楽と邦楽が違う点も有りますが、音楽として一致する所も多いですし、その前に相手の土俵に上がって妥協しなければならないケースだって有るんですよ。その技術的擦り合わせが出来る尺八家が増えて来ましたので、尺八は新しい時代を開けたのです。
でも、今後は古典、新曲、現代邦楽はドンドン実演現場からは外れて行くでしょうが、尺八の「一音成仏」の境地は将来にわたって大切だと思います。
ともかく「尺八の一つの音にも心を込めて出す」という様な解釈で大きな間違いはないでしょう。
昔、京都大学の教授だった桑原武夫さんが「第二芸術論」という事を言い出しました。
俳句ですが、あんな短い文で現代人の心などは表現できない。それに良いも悪いも決めるのは派閥の論理。その証拠に大家の作の中に素人の俳句を混ぜ込んだら誰も分からなかったではないか。あんなモノは芸術では無く、強いて言えば第二芸術だ。
極く簡単に言えば、こういう事でしょう。
時代を感じますね。今の人なら「どうでも良い」と言うでしょう。好きならやれば良いし、好きでないならやらなければ良い、所詮人の意見は人の意見。エライ文化人が何を言ったところでオレには関係無い。そういった所でしょう。
俳句って良く知りませんが理屈をつけると幾らでもつけられますね。短くて個人の解釈の巾が大きいから、どうにでも解釈できますわ。
「古池や、蛙とびこむ・・・」の句は日本人なら誰でも、仮に粟田や古市の様な落第生でも知っているでしょう。ここに禅の人は小難しい解釈をつけていますが、私には分からないから結局「どうでも良い」。
素人の句を大家の作と言っても分からないのも事実でしょう。桑原さんが実験して実証していますからね。
私の周りにも俳句が好きで同好会を作っていたり、自費で自作句集を出して周囲に配っている人が何人もいます。その人達は皆好きで俳句を作っているわけで、アカデミーがどう規定しようと関心が無いですね。自作句集を出すほどの人は皆「第二芸術論」くらい知ってますわ。
尺八の「一音成仏」って俳句と似てませんか? モチ、口だけの人の方が多いとは思います。でも立証するスベが無いからファジーなままで良いと思います。
「一つの音にも生命を吹きこむ。だから、その人の達している段階は一音で分かる」。これ、私も外国人に尺八の魅力を説明する時に常に言ってます。「ハッタリだ~」だと、バカ野郎、ワシを誰だと思ってる。それに、あまりホントの事を言うもんじゃないよ。
尺八って俳句の「第二芸術」どころではなく、もっと酷い事を言われてきました。身内であるはずの邦楽学者の中にも、尺八は箏や三弦より一段低い位置ずけであると公然と言っていた人までいたくらいです。東大のKさんですよ。横山勝也先生は色を成して怒っていましたがね、私達の代だと怒っている者はいなかったですね。何をどう言おうと個人的な意見に過ぎないですよ。それで尺八のイメージが悪くなるわけでも無いし、実害が生じるわけでも無いですもの。少なくともKさんの影響力の範囲なら・・・。
邦楽学者でなく、よしんば強い影響力を持った音楽家であっても、その発言が主観または抽象的な価値判断の領域内に留まる間は、今は「個人的意見」で済みますが、主として洋楽畑からの技術的な指摘は真剣に受け止める必要が有ります。
それを「邦楽は洋楽とは違う」で無視した所は例外なく落ちぶれました。洋楽と邦楽が違う点も有りますが、音楽として一致する所も多いですし、その前に相手の土俵に上がって妥協しなければならないケースだって有るんですよ。その技術的擦り合わせが出来る尺八家が増えて来ましたので、尺八は新しい時代を開けたのです。
でも、今後は古典、新曲、現代邦楽はドンドン実演現場からは外れて行くでしょうが、尺八の「一音成仏」の境地は将来にわたって大切だと思います。
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