助六
- 2017/01/06
- 22:36
たしか平成7年の事だったと思います。日本尺八連盟の日比谷公会堂での恒例の演奏会の翌朝、ホテルのレストランで島原帆山先生と話していた時です。
「今度広島で團十郎と共演するんだよ。アナタ知ってるよね、團十郎・・・」。 それは知ってますよ。歌舞伎界で最大のビッグネームですもんね。
「はい、指を使わないで足し算が出来る人なら全員が知っていると思います」。
「アナタ、喩が面白いね。今の團十郎って何代目かね?」。 これも知っていました。これにはチョットした秘密が有ります。
「はい、数えましたが両手の指では足りません(超大家に対してチョット冗談がクドイカナと反省しましたが)12代目です」。でも先生はそれには無反応でした。
「そうか、12代も続いているというのは凄いね」。 でも血筋が連続しているわけでは無いですし、「凄い」と感じるか、その程度の世界と思うかは人によって違いますがね。
私の高校時代の国語教師W先生は今も演劇評論家として健在ですが、歌舞伎キチガイで、,松本幸四郎(九代目)とも若い時からの友達です。高校教諭から塾講師に転じ、自著のテキストが大ヒットし、一時は年収数千万円を挙げましたが、それを全て芝居に注ぎ込み、挙句自己破産したという真に尊敬すべき人物です。冷やかしているんではないですよ、私はこういう人を評価します。
この先生が授業中しばしば歌舞伎や演劇のエピソードを話してくれました。
私は歌舞伎には興味が無いですが、W先生のオカゲでホンの少しの知識は持っていました。
島原先生に話を戻して。
團十郎ですから「助六」の尺八を島原先生が吹くのかと思いましたが、違いました。歌舞伎では無かったようでした。
12代目團十郎は66で亡くなりましたが、苦労の多い人でしたね。十億を越える借金、長く苦しんだ白血病、息子の不行跡。歴代の團十郎には薄幸のイメージが付き纏いますね。早死にや怪死が相次ぎました。
「バカ息子」と言われた海老蔵も奥さんが癌ですからね、気の毒な事です。私は海老蔵は好きではありませんが、若くして負った莫大な借金と奥さんの病気には心から同情します。
紫の鉢巻き、黒い着流し赤い下着、背中に尺八を指す伊達男。これが市川團十郎のお家芸「花川戸の助六」の定番ですが、このスタイルは後の姿で初めは尺八を背中に指していなかったと言う話を聞いた事が有ります。真偽は知りません。
三代目團十郎は非常な尺八の名手でしたが、21才で夭折してしまい、養子の三代目より長く生きた二代目團十郎が、三代目を哀惜して、今日のスタイルにしたと言う説です。
この格好、今だったら気が違ったと思われますが、当時の人には何とも格好良くて、それで尺八も人気になりました。
やっぱり格好良くなくちゃあ駄目ですよ。そういった点でも、今の尺八界って藤原道山さんはじめイイ男が続々と出てきて、これも希望が持てます。
少なくとも、これまでの「イジケタ年寄が背中を丸めて、しょぼくれた音を出している」と言うイメージとは決別出来ました。
いずれにしろ18世紀半ばには尺八が虚無僧の専売特許なんかではなく、庶民にも人気が有った楽器だったのです。でも江戸に稲荷寿司が出てくるのは百年近く後ですね。
花川戸は漠然と浅草駅から雷門あたりと思えば良いでしょう。ここは助六と同じ男伊達、侠客の街。「最初の侠客」と言われる幡随院長兵衛、そして「最後の侠客」と言われるのが新門辰五郎。ともに花川戸です。
昔、ここに行くと安い尺八が売っていましたな、芝居の小道具ですがね。
(ついでにウンチク) 稲荷寿司と海苔巻きの折を助六と言いますな。助六のヒロイン揚巻にちなんでいます。油揚げがキツネの好物だというのは狂言の「釣り狐」に由来します。ネズミの唐揚げの代わりです。
実際の狐は油揚げを好みません。法政大学三曲会の人間なら皆知ってました。村上先輩が実証していましたから。
「今度広島で團十郎と共演するんだよ。アナタ知ってるよね、團十郎・・・」。 それは知ってますよ。歌舞伎界で最大のビッグネームですもんね。
「はい、指を使わないで足し算が出来る人なら全員が知っていると思います」。
「アナタ、喩が面白いね。今の團十郎って何代目かね?」。 これも知っていました。これにはチョットした秘密が有ります。
「はい、数えましたが両手の指では足りません(超大家に対してチョット冗談がクドイカナと反省しましたが)12代目です」。でも先生はそれには無反応でした。
「そうか、12代も続いているというのは凄いね」。 でも血筋が連続しているわけでは無いですし、「凄い」と感じるか、その程度の世界と思うかは人によって違いますがね。
私の高校時代の国語教師W先生は今も演劇評論家として健在ですが、歌舞伎キチガイで、,松本幸四郎(九代目)とも若い時からの友達です。高校教諭から塾講師に転じ、自著のテキストが大ヒットし、一時は年収数千万円を挙げましたが、それを全て芝居に注ぎ込み、挙句自己破産したという真に尊敬すべき人物です。冷やかしているんではないですよ、私はこういう人を評価します。
この先生が授業中しばしば歌舞伎や演劇のエピソードを話してくれました。
私は歌舞伎には興味が無いですが、W先生のオカゲでホンの少しの知識は持っていました。
島原先生に話を戻して。
團十郎ですから「助六」の尺八を島原先生が吹くのかと思いましたが、違いました。歌舞伎では無かったようでした。
12代目團十郎は66で亡くなりましたが、苦労の多い人でしたね。十億を越える借金、長く苦しんだ白血病、息子の不行跡。歴代の團十郎には薄幸のイメージが付き纏いますね。早死にや怪死が相次ぎました。
「バカ息子」と言われた海老蔵も奥さんが癌ですからね、気の毒な事です。私は海老蔵は好きではありませんが、若くして負った莫大な借金と奥さんの病気には心から同情します。
紫の鉢巻き、黒い着流し赤い下着、背中に尺八を指す伊達男。これが市川團十郎のお家芸「花川戸の助六」の定番ですが、このスタイルは後の姿で初めは尺八を背中に指していなかったと言う話を聞いた事が有ります。真偽は知りません。
三代目團十郎は非常な尺八の名手でしたが、21才で夭折してしまい、養子の三代目より長く生きた二代目團十郎が、三代目を哀惜して、今日のスタイルにしたと言う説です。
この格好、今だったら気が違ったと思われますが、当時の人には何とも格好良くて、それで尺八も人気になりました。
やっぱり格好良くなくちゃあ駄目ですよ。そういった点でも、今の尺八界って藤原道山さんはじめイイ男が続々と出てきて、これも希望が持てます。
少なくとも、これまでの「イジケタ年寄が背中を丸めて、しょぼくれた音を出している」と言うイメージとは決別出来ました。
いずれにしろ18世紀半ばには尺八が虚無僧の専売特許なんかではなく、庶民にも人気が有った楽器だったのです。でも江戸に稲荷寿司が出てくるのは百年近く後ですね。
花川戸は漠然と浅草駅から雷門あたりと思えば良いでしょう。ここは助六と同じ男伊達、侠客の街。「最初の侠客」と言われる幡随院長兵衛、そして「最後の侠客」と言われるのが新門辰五郎。ともに花川戸です。
昔、ここに行くと安い尺八が売っていましたな、芝居の小道具ですがね。
(ついでにウンチク) 稲荷寿司と海苔巻きの折を助六と言いますな。助六のヒロイン揚巻にちなんでいます。油揚げがキツネの好物だというのは狂言の「釣り狐」に由来します。ネズミの唐揚げの代わりです。
実際の狐は油揚げを好みません。法政大学三曲会の人間なら皆知ってました。村上先輩が実証していましたから。
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