後援の意味
- 2017/01/21
- 22:23
1974年の1月そうそうです。タブン10日頃だと思いますが韓国のソウルから釜山まで行く急行列車に乗って、その食堂車で金相國というお笑いタレントと知り合いになりました。その時点では名も、どういう職業の人かも知らず、たどたどしいながら金さんが日本語を話せたので芸能人とも知らずに気楽に会話しました。
後で訊くと金相國はお笑いタレントとしては一流。今の日本で言うと、さんま、たけしとまではいかないものの、ダウンタウンか爆笑問題かというランクにいました。それは話ているうちにある程度は分かって来ましたが、別に緊張しませんでしたね。それと言うのも、しなびたオジサンという感じの人で、41才ということでしたが見た目は50過ぎ。服装も立派ではないですし、舞台公演が有るとかで、途中の大邱で下車しましたがマネージャーもいないで一人で大きなトランクを下げて行きました。もっとも、それが当時の韓国の芸能人の置かれていた一般的な境遇だったようです。
金さんは私に職業を訊きましたが、まさか「今は闇貿易だ」とは言えませんからね、それにプロレスの話が来ていましたので、もうすぐプロレス関係の仕事をするつもりだと言うと、やめておけと忠告されました。
「あれはアメリカから入って来た漫画、そう漫画ですよ」という事をさかんに言いました。
金さんは当時の大統領、朴正熙に可愛がられて、ショッチュウ青瓦台に呼ばれていました。そこで金一(大木金太郎)ともよく会っていたそうです。金さんにすると、尊敬する朴正熙が「疑似格闘技」に熱を上げているのが腹立たしくて仕方がないようでした。
当時でも、すでに韓国人の大半はプロレスを「一種の芝居」と認識していました。でも朴大統領はプロレスの興隆に力を入れ、韓国のプロレスは初めナンバー2の金鐘泌首相が、次にナンバー3の朴鐘圭大統領警護室長が「後援会長」をしました。
ある時、テレビでプロレスを見ていた朴大統領に誰かが(後で大統領になった全斗煥だとも言われています)、「こんな芝居のどこが面白いのですか?」と言って、怒られたというエピソードが有ります。
プロレスの構造、けっして真剣勝負でもなければ芝居の様に台本通りに進行するものでもないし、筋書きすら無くて当人同士が序列の秩序で「言うまでも無い」と試合を作っている場合も有ります。「ショー」というのが正確ですが、まあ、単純な世界観の人相手には「八百長」で良いでしょうよ、そんなの言われるまでもなく大統領ですから知っています。
一流タレントにすらマネジャーがいないほど未発達だった韓国の置かれていた立場、それは戦後復興期の日本も同じですが、国民にどんな事でも良いですから、まず自信を与えなければなりません。金一がアメリカ人や日本人レスラーを薙ぎ倒すのを見て、大衆が熱狂したのは力道山の成功と全く同じ構造でした。
戦後の日本で、まず国民に力を与えたのが、ノーベル賞の湯川秀樹、ボクシングで日本初の世界チャンピオンになった白井義男、水泳の古橋広之進の3人だったということは、私の世代までは耳にタコが出来るほど聞かされました。その後、日本は驚異的な成功をとげて自信を高めていきましたが、日本の経済力が上がるにつれ、外国に行く人も多くなりました。
昭和50年頃からですかね、「欧米人と話していると、彼らは日本の歴史や伝統文化にしか興味を抱いていないし、その方面になると日本人である自分に説明できるほどの知識が無くて困った」という話をよく聞くようになりました。
さらに時代が進むと欧米人と接する人や機会も飛躍的に増えていき、「文化を語れないと深く交流できない」との声が高まり、それで日本政府も伝統文化の振興に力を入れはじめたというわけです。
私は能よりも歌舞伎よりも尺八の方が世界で知られる様になる可能性がズット高いと思っています。今、はっきり言って国の援助と言う点では、伝統文化に関しては30年前とは比べようもないほどに手厚くなっています。
でも、肝心の尺八の人達がねえ、ほとんどの人が知らないし、役立てていません。今、日本中に尺八のカルチャー講座が有りますが、これ一つとっても30年前には大変だったんですから・・・。
後押しの力を生かせば、当然に尺八は大きく羽ばたきますし、そうでないなら存続は厳しい。だって、これまでの尺八界を支えてきた「個人レベルのボランティア後援」の時代はもう終わったんですもの。
後で訊くと金相國はお笑いタレントとしては一流。今の日本で言うと、さんま、たけしとまではいかないものの、ダウンタウンか爆笑問題かというランクにいました。それは話ているうちにある程度は分かって来ましたが、別に緊張しませんでしたね。それと言うのも、しなびたオジサンという感じの人で、41才ということでしたが見た目は50過ぎ。服装も立派ではないですし、舞台公演が有るとかで、途中の大邱で下車しましたがマネージャーもいないで一人で大きなトランクを下げて行きました。もっとも、それが当時の韓国の芸能人の置かれていた一般的な境遇だったようです。
金さんは私に職業を訊きましたが、まさか「今は闇貿易だ」とは言えませんからね、それにプロレスの話が来ていましたので、もうすぐプロレス関係の仕事をするつもりだと言うと、やめておけと忠告されました。
「あれはアメリカから入って来た漫画、そう漫画ですよ」という事をさかんに言いました。
金さんは当時の大統領、朴正熙に可愛がられて、ショッチュウ青瓦台に呼ばれていました。そこで金一(大木金太郎)ともよく会っていたそうです。金さんにすると、尊敬する朴正熙が「疑似格闘技」に熱を上げているのが腹立たしくて仕方がないようでした。
当時でも、すでに韓国人の大半はプロレスを「一種の芝居」と認識していました。でも朴大統領はプロレスの興隆に力を入れ、韓国のプロレスは初めナンバー2の金鐘泌首相が、次にナンバー3の朴鐘圭大統領警護室長が「後援会長」をしました。
ある時、テレビでプロレスを見ていた朴大統領に誰かが(後で大統領になった全斗煥だとも言われています)、「こんな芝居のどこが面白いのですか?」と言って、怒られたというエピソードが有ります。
プロレスの構造、けっして真剣勝負でもなければ芝居の様に台本通りに進行するものでもないし、筋書きすら無くて当人同士が序列の秩序で「言うまでも無い」と試合を作っている場合も有ります。「ショー」というのが正確ですが、まあ、単純な世界観の人相手には「八百長」で良いでしょうよ、そんなの言われるまでもなく大統領ですから知っています。
一流タレントにすらマネジャーがいないほど未発達だった韓国の置かれていた立場、それは戦後復興期の日本も同じですが、国民にどんな事でも良いですから、まず自信を与えなければなりません。金一がアメリカ人や日本人レスラーを薙ぎ倒すのを見て、大衆が熱狂したのは力道山の成功と全く同じ構造でした。
戦後の日本で、まず国民に力を与えたのが、ノーベル賞の湯川秀樹、ボクシングで日本初の世界チャンピオンになった白井義男、水泳の古橋広之進の3人だったということは、私の世代までは耳にタコが出来るほど聞かされました。その後、日本は驚異的な成功をとげて自信を高めていきましたが、日本の経済力が上がるにつれ、外国に行く人も多くなりました。
昭和50年頃からですかね、「欧米人と話していると、彼らは日本の歴史や伝統文化にしか興味を抱いていないし、その方面になると日本人である自分に説明できるほどの知識が無くて困った」という話をよく聞くようになりました。
さらに時代が進むと欧米人と接する人や機会も飛躍的に増えていき、「文化を語れないと深く交流できない」との声が高まり、それで日本政府も伝統文化の振興に力を入れはじめたというわけです。
私は能よりも歌舞伎よりも尺八の方が世界で知られる様になる可能性がズット高いと思っています。今、はっきり言って国の援助と言う点では、伝統文化に関しては30年前とは比べようもないほどに手厚くなっています。
でも、肝心の尺八の人達がねえ、ほとんどの人が知らないし、役立てていません。今、日本中に尺八のカルチャー講座が有りますが、これ一つとっても30年前には大変だったんですから・・・。
後押しの力を生かせば、当然に尺八は大きく羽ばたきますし、そうでないなら存続は厳しい。だって、これまでの尺八界を支えてきた「個人レベルのボランティア後援」の時代はもう終わったんですもの。
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