鬼ごっこ
- 2017/01/31
- 21:39
他の音楽もそうでしょうが、尺八もソフトとハードと演奏者は「追いかけっこ」、それも互いに鬼になりながらの「鬼ごっこ」です。
尺八の性能進化が新たなるソフトを展開し、演奏者のチャレンジ精神を呼び、曲に追いつく為にハードである尺八もさらに必死に改良を試みる。
虚無僧が托鉢、それも天蓋を被ってという後期のスタイルになると、尺八には大して楽器としての機能は求められません。でも、その頃には虚無僧寺の中で、より複雑な本曲に取り組む人達がいました。そうなると尺八だって「何でも良い」とはいきません。
初代琴古の収集した本曲の段階で、すでに「ひとよぎり」を初めとする前の時代の楽器では対応が難しくなっています。
次に三曲に進出していくと、ともかくも三弦、箏のメロディーラインをこなさなければなりませんので、尺八そのものにも、より高度で安定した機能が求められます。
そうやって尺八が進歩してきましたが、そうなってくると「それならば出来るだろう」と曲も新しい地平にチャレンジしていきます。
五孔尺八では「出ない」ツの大甲も、最近の若い演奏者が膝を持ち上げて管尻を塞いで出している現場は見たことが有ると思います。昔は「五孔で出せないなんて嘘だ」と言って、イッショウケンメイに出してみせてくれた年寄が大勢いましたが、そういう音程で出すのなら誰でも出せまっせ。
今のプロはレの大甲のさらに1オクターブ上まで出せる段階にまで行っています。藤原道山や菅原久仁義が「出せる」という意味は、「何時でも音程通りに」という事です。勿論性能の高い尺八有ってです。
「出せたって使い道が無いじゃない」ではなく、それなら選択するソフトの範囲が拡がるという事です。
よく私は今の尺八界を「明治維新後何年」と例えます。あくまで「たとえ」ですが、一つの体制が終焉した状況は現状尺八界も同じ道筋を辿っています。
徳川幕藩体制は何によらず変革を「体制を揺るがす物」として嫌いました。ですから幕藩体制が行き詰まっても「公武合体」とか「諸侯合議」とかの弥縫策しか採用できないんです。結局、力で倒されましたが、相手の力が強かったと言うよりは、味方の非協力で本来の力が発揮できませんでした。つまり価値観の変化。だから明治維新は「革命」と認定されているんです。味方の非協力と言っても、関ケ原における石田三成の置かれた状況とは全く違います。
これって、流や会派の崩壊した現状とそっくりですね。流や会派は自らの生存の為に指示系統の混乱やソフトの急激な変化を容認できません。そこで、今の様に人が、ソフトもそれを縛る体制にもノーを突きつける時代を乗り越えられなかったのです。
これから「縛るもの」の無くなった尺八はソフトも大変革を起こしますし、それで派生した曲に対応出来る様にハードである尺八自体も様々な変化形を持たざるを得ない状況になります。今既に流や会は演奏者を強く縛れるだけの強制力を失っていますが、まして新しい分野では自主規制さえしなければ自由に活動出来ます。
でも音楽ですから、社会体制の様に、前のものが全否定されたり、まして禁止されるなんて有り得ません。バリエーションが広がるだけです。
自由、勝手、無秩序、無制約の希望に満ちた時代の幕が徐々に開いていってます。ソフトとハードと演奏家、「鬼ごっこ」は益々本格化しますよ。
尺八の性能進化が新たなるソフトを展開し、演奏者のチャレンジ精神を呼び、曲に追いつく為にハードである尺八もさらに必死に改良を試みる。
虚無僧が托鉢、それも天蓋を被ってという後期のスタイルになると、尺八には大して楽器としての機能は求められません。でも、その頃には虚無僧寺の中で、より複雑な本曲に取り組む人達がいました。そうなると尺八だって「何でも良い」とはいきません。
初代琴古の収集した本曲の段階で、すでに「ひとよぎり」を初めとする前の時代の楽器では対応が難しくなっています。
次に三曲に進出していくと、ともかくも三弦、箏のメロディーラインをこなさなければなりませんので、尺八そのものにも、より高度で安定した機能が求められます。
そうやって尺八が進歩してきましたが、そうなってくると「それならば出来るだろう」と曲も新しい地平にチャレンジしていきます。
五孔尺八では「出ない」ツの大甲も、最近の若い演奏者が膝を持ち上げて管尻を塞いで出している現場は見たことが有ると思います。昔は「五孔で出せないなんて嘘だ」と言って、イッショウケンメイに出してみせてくれた年寄が大勢いましたが、そういう音程で出すのなら誰でも出せまっせ。
今のプロはレの大甲のさらに1オクターブ上まで出せる段階にまで行っています。藤原道山や菅原久仁義が「出せる」という意味は、「何時でも音程通りに」という事です。勿論性能の高い尺八有ってです。
「出せたって使い道が無いじゃない」ではなく、それなら選択するソフトの範囲が拡がるという事です。
よく私は今の尺八界を「明治維新後何年」と例えます。あくまで「たとえ」ですが、一つの体制が終焉した状況は現状尺八界も同じ道筋を辿っています。
徳川幕藩体制は何によらず変革を「体制を揺るがす物」として嫌いました。ですから幕藩体制が行き詰まっても「公武合体」とか「諸侯合議」とかの弥縫策しか採用できないんです。結局、力で倒されましたが、相手の力が強かったと言うよりは、味方の非協力で本来の力が発揮できませんでした。つまり価値観の変化。だから明治維新は「革命」と認定されているんです。味方の非協力と言っても、関ケ原における石田三成の置かれた状況とは全く違います。
これって、流や会派の崩壊した現状とそっくりですね。流や会派は自らの生存の為に指示系統の混乱やソフトの急激な変化を容認できません。そこで、今の様に人が、ソフトもそれを縛る体制にもノーを突きつける時代を乗り越えられなかったのです。
これから「縛るもの」の無くなった尺八はソフトも大変革を起こしますし、それで派生した曲に対応出来る様にハードである尺八自体も様々な変化形を持たざるを得ない状況になります。今既に流や会は演奏者を強く縛れるだけの強制力を失っていますが、まして新しい分野では自主規制さえしなければ自由に活動出来ます。
でも音楽ですから、社会体制の様に、前のものが全否定されたり、まして禁止されるなんて有り得ません。バリエーションが広がるだけです。
自由、勝手、無秩序、無制約の希望に満ちた時代の幕が徐々に開いていってます。ソフトとハードと演奏家、「鬼ごっこ」は益々本格化しますよ。
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