柔軟性
- 2017/02/06
- 18:17
1970年代の前半は韓国に行くのに常に関釜フェリーを使いました。下関から釜山まで片道5千円の雑魚寝部屋で行くのです。飛行機と違って大量の荷物を運べましたし、乗り合わせている在日韓国人達と話が出来るのも魅力でした。
在日のオバちゃん達は、いわゆる「運び屋」をやっている人がたくさんいました。大きな行李を幾つも運んで船に乗って来るのです。非常に良く税関法を知っていて、どんなに多くとも必ず免税の範囲でした。
韓国で注文を取って日本から運ぶのは、衣料品、医薬品、化粧品、雑貨、電気製品ですが、その中に混じって玩具、食品なんかも有りました。どれも免税内ですから、もの凄い種類でしたね。
そして韓国からは唐辛子とかコチュジャン、朝鮮人参なんかを運んで来るのです。一人3本までの免税ウイスキーは下関のバーが喜んで買いました。
一回の渡航で得られる金は幾らなのでしょうか? あまり多くはないでしょう。月に2回往復して経費を除くと手取り10万円くらいですかね。当時の大学出の初任給を少し上回る程度ではないかと思います。だって、それ以上の稼ぎが有るなら皆がやっていますよ。日本でも韓国でも、それこそ「売る苦労」というものが無いんですもの。50過ぎの在日のオバちゃんにしたら良い稼ぎかも知れませんが、成人男子がやってないとこから見て、大した金額には成っていなかったと思います。
私は若かったから、こういう地道なニッチ仕事を息長くやろうとは思いませんでした。狙うのはイッカク千金のボロモウケでした。
そのケースを一つ話しましょう。
1974年の春にカラーフィルムが24枚撮りに切り替わりました。その前って20枚撮りだったんですよ。そうなると変更が一般に知られる前に20枚撮りフィルムの一斉処理が起こりました。当然の事ながら「投げ売り」です。このフィルムは後輩のカメラ屋の後藤が捨て値で集めてくれました。
これを韓国に運べば大儲けです。当時の韓国はカラーフィルムを作る技術が無く、輸入フィルムの関税は50パーセントでしたから、税金ゼロだったら何処のカメラ屋も二つ返事で買います。
が、ここに障壁が有ります。大量のフィルムは持ちこめない。ですからコネと金がいるんですよ。担当した税関職員が1人10台のカメラと千巻のフィルムでも「旅行用の手荷物」と判断すれば、当時の韓国の税法では適法なのです。カメラはパスポートに記載して帰国時に無かったら120パーセントの関税をかけられますが、「うっかりして」記載を忘れる事が有りますな・・・。
私や後藤のやった事は、何らアブナイ橋ではないのですが、より穏やかに、地道にコツコツやるのが良いかと言えば、それも疑問です。「地道にコツコツ、息長く」が有効なのは社会環境が変わらない場合だけです。
あのオバちゃん達は先が見えていたのかどうかは分かりませんが、「運び屋」は80年代いっぱいで終わった仕事です。それは韓国の発展の速度を観察すれば容易に分かる事でした。でも、オバちゃん達は自分の齢を考えて、「自分の元気な間は大丈夫だろう」と思っていたのでしょう。ですから、そうとしか思えないのですよ。だって若い在日の女性だって見た事無いもの。きっと先が無い事が分かっていたんでしょうよ。
尺八については、もう言うまでもないですわな。仕組みというか、成り立たせていた環境がすっかり変わってしまいました。「しっかり地道に芸を磨けば道は開ける」ではなく、芸を磨くのはプロなら当たり前。周囲の変化を観察していて、もし「これだ」と思ったら躊躇せずに動かなければ道は開けません。
在日のオバちゃん達は、いわゆる「運び屋」をやっている人がたくさんいました。大きな行李を幾つも運んで船に乗って来るのです。非常に良く税関法を知っていて、どんなに多くとも必ず免税の範囲でした。
韓国で注文を取って日本から運ぶのは、衣料品、医薬品、化粧品、雑貨、電気製品ですが、その中に混じって玩具、食品なんかも有りました。どれも免税内ですから、もの凄い種類でしたね。
そして韓国からは唐辛子とかコチュジャン、朝鮮人参なんかを運んで来るのです。一人3本までの免税ウイスキーは下関のバーが喜んで買いました。
一回の渡航で得られる金は幾らなのでしょうか? あまり多くはないでしょう。月に2回往復して経費を除くと手取り10万円くらいですかね。当時の大学出の初任給を少し上回る程度ではないかと思います。だって、それ以上の稼ぎが有るなら皆がやっていますよ。日本でも韓国でも、それこそ「売る苦労」というものが無いんですもの。50過ぎの在日のオバちゃんにしたら良い稼ぎかも知れませんが、成人男子がやってないとこから見て、大した金額には成っていなかったと思います。
私は若かったから、こういう地道なニッチ仕事を息長くやろうとは思いませんでした。狙うのはイッカク千金のボロモウケでした。
そのケースを一つ話しましょう。
1974年の春にカラーフィルムが24枚撮りに切り替わりました。その前って20枚撮りだったんですよ。そうなると変更が一般に知られる前に20枚撮りフィルムの一斉処理が起こりました。当然の事ながら「投げ売り」です。このフィルムは後輩のカメラ屋の後藤が捨て値で集めてくれました。
これを韓国に運べば大儲けです。当時の韓国はカラーフィルムを作る技術が無く、輸入フィルムの関税は50パーセントでしたから、税金ゼロだったら何処のカメラ屋も二つ返事で買います。
が、ここに障壁が有ります。大量のフィルムは持ちこめない。ですからコネと金がいるんですよ。担当した税関職員が1人10台のカメラと千巻のフィルムでも「旅行用の手荷物」と判断すれば、当時の韓国の税法では適法なのです。カメラはパスポートに記載して帰国時に無かったら120パーセントの関税をかけられますが、「うっかりして」記載を忘れる事が有りますな・・・。
私や後藤のやった事は、何らアブナイ橋ではないのですが、より穏やかに、地道にコツコツやるのが良いかと言えば、それも疑問です。「地道にコツコツ、息長く」が有効なのは社会環境が変わらない場合だけです。
あのオバちゃん達は先が見えていたのかどうかは分かりませんが、「運び屋」は80年代いっぱいで終わった仕事です。それは韓国の発展の速度を観察すれば容易に分かる事でした。でも、オバちゃん達は自分の齢を考えて、「自分の元気な間は大丈夫だろう」と思っていたのでしょう。ですから、そうとしか思えないのですよ。だって若い在日の女性だって見た事無いもの。きっと先が無い事が分かっていたんでしょうよ。
尺八については、もう言うまでもないですわな。仕組みというか、成り立たせていた環境がすっかり変わってしまいました。「しっかり地道に芸を磨けば道は開ける」ではなく、芸を磨くのはプロなら当たり前。周囲の変化を観察していて、もし「これだ」と思ったら躊躇せずに動かなければ道は開けません。
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