ピーク
- 2017/02/09
- 22:46
人間のピークって幾つですかね。体力的には20代前半でしょう。性欲もその頃。反射神経だと10代の後半、記憶力は10~18歳くらいでしょうか。
でも知力となると経験とか洞察力、分析力等の総合ですから50歳前後なのではないでしょうか。
スポーツでもボクシングとか相撲、サッカー、野球なんかは選手寿命が短いですね。スポーツと演劇の狭間にあるプロレスとなると40位が最も良い年齢だと言われています。
尺八で島原帆山先生は「40や50ではマダマダ、人を感動させる尺八は吹けない」と言っていましたが、これこそ個人差が大きいと思います。早くに冴えが無くなる人もいれば、中年過ぎにピークを迎える人だっています。小山菁山先生は「高平艟山さんが一番凄かったのは60代半ば過ぎ」と感想を述べました。
青木鈴慕先生の尺八は30半ばから聴いていますが、40過ぎまでは、それは物凄い気迫と鋭さで覇気に溢れた演奏でした。40代の先生は年と共に円熟味を増していきましたが、正直言って50代後半から、ときたま「アレッ」という事が起き始めました。僭越なのですが、私見では青木鈴慕のピークは50だと思います。
青木鈴慕先生だけではなく、大半の尺八演奏家の力量的な頂点はこの頃に有るのではと思います。でも同じ芸術分野でも演劇とか美術となると80でも90でもという事になります。
人間、この不思議な生き物は「一辺倒」では括れないので厄介です。私の大学時代は皆で安酒場かもう一段落ちたドカタ飲み屋へ行くのが定番でした。さらに落ちる競馬競輪場の周辺に在る立ち飲み屋台まではいきません。
ドカタ飲み屋は金が無いから行ったのであって、金が出来てからでも趣味で出入りしていた人なんて香川一朝さんくらいなものですよ。もっとも中央大学の竹桐会ですから卒業してもОBには、その後の身分上昇が無くヒトカドの年齢になってもドカタ飲み屋の暖簾をくぐっている者もいるかも知れませんがの・・・。
まあそれはトモカク、ドカタ飲み屋で話を聞いていると途方も無く面白いのです。酔っ払いの法螺話なんかを言ってるんじゃないですよ。葛西善三って小説家知ってますかね、言ってみれば津軽の生んだバカモノですよ。今は読まれていない作家ですが私の大学の頃まではディ―プな読者がいました。あの小説を「酔っ払いのタワゴト」と見放す人がいる一方で、読んで人生の深い悲しみに触れる読者もいます。
私?私は葛西はほとんど読みませんよ。何故ならば葛西の小説レベルの話は当時のドカタ飲み屋でいくらでも拾えましたもの。人生の深い哀感は、20そこそこの当時の私は「到底出せない人生の味」と舌を巻いたものです。こういうモノを表現するとなったら必要なのはヤッパリ人生経験でしょうな。
尺八製作は職人芸であって芸術ではありませんから人生の深さは関係無いのでしょうか。でも体力はいらないので60代でも成長する様な気がします。でも注意力が衰えたら急速に品質は落ちます。それでも今までは通ってきたのが尺八界の複雑な所です。この世界は演奏も楽器製作も年を重ねた人は、技術が衰えたとしても、その半面「大家」と虚名を得る傾向が有ります。「何でこんなお粗末が分からないんだ、開き目クラが・・・」と腹を立てていたのは40代まで。今は半面に関しては寛容になっています。
「今はテメエが歳を喰って大家になったからだろう」って、ホホゥ、良く分かってるじゃん。
良くお分かりですが、その分かっていない所が年齢を重ねると、タブンお分かりいただけますよ。尺八と言うより「日本伝統文化」の恥部だと言うのも本当。それこそ日本文化のキモ、外部との交流が無かった特異な風土で培われた「伝統芸」の奥深さ、複雑さだという別の一面が見えてくるとマア上出来。そこを利用できるようになったら上の上です。
でも知力となると経験とか洞察力、分析力等の総合ですから50歳前後なのではないでしょうか。
スポーツでもボクシングとか相撲、サッカー、野球なんかは選手寿命が短いですね。スポーツと演劇の狭間にあるプロレスとなると40位が最も良い年齢だと言われています。
尺八で島原帆山先生は「40や50ではマダマダ、人を感動させる尺八は吹けない」と言っていましたが、これこそ個人差が大きいと思います。早くに冴えが無くなる人もいれば、中年過ぎにピークを迎える人だっています。小山菁山先生は「高平艟山さんが一番凄かったのは60代半ば過ぎ」と感想を述べました。
青木鈴慕先生の尺八は30半ばから聴いていますが、40過ぎまでは、それは物凄い気迫と鋭さで覇気に溢れた演奏でした。40代の先生は年と共に円熟味を増していきましたが、正直言って50代後半から、ときたま「アレッ」という事が起き始めました。僭越なのですが、私見では青木鈴慕のピークは50だと思います。
青木鈴慕先生だけではなく、大半の尺八演奏家の力量的な頂点はこの頃に有るのではと思います。でも同じ芸術分野でも演劇とか美術となると80でも90でもという事になります。
人間、この不思議な生き物は「一辺倒」では括れないので厄介です。私の大学時代は皆で安酒場かもう一段落ちたドカタ飲み屋へ行くのが定番でした。さらに落ちる競馬競輪場の周辺に在る立ち飲み屋台まではいきません。
ドカタ飲み屋は金が無いから行ったのであって、金が出来てからでも趣味で出入りしていた人なんて香川一朝さんくらいなものですよ。もっとも中央大学の竹桐会ですから卒業してもОBには、その後の身分上昇が無くヒトカドの年齢になってもドカタ飲み屋の暖簾をくぐっている者もいるかも知れませんがの・・・。
まあそれはトモカク、ドカタ飲み屋で話を聞いていると途方も無く面白いのです。酔っ払いの法螺話なんかを言ってるんじゃないですよ。葛西善三って小説家知ってますかね、言ってみれば津軽の生んだバカモノですよ。今は読まれていない作家ですが私の大学の頃まではディ―プな読者がいました。あの小説を「酔っ払いのタワゴト」と見放す人がいる一方で、読んで人生の深い悲しみに触れる読者もいます。
私?私は葛西はほとんど読みませんよ。何故ならば葛西の小説レベルの話は当時のドカタ飲み屋でいくらでも拾えましたもの。人生の深い哀感は、20そこそこの当時の私は「到底出せない人生の味」と舌を巻いたものです。こういうモノを表現するとなったら必要なのはヤッパリ人生経験でしょうな。
尺八製作は職人芸であって芸術ではありませんから人生の深さは関係無いのでしょうか。でも体力はいらないので60代でも成長する様な気がします。でも注意力が衰えたら急速に品質は落ちます。それでも今までは通ってきたのが尺八界の複雑な所です。この世界は演奏も楽器製作も年を重ねた人は、技術が衰えたとしても、その半面「大家」と虚名を得る傾向が有ります。「何でこんなお粗末が分からないんだ、開き目クラが・・・」と腹を立てていたのは40代まで。今は半面に関しては寛容になっています。
「今はテメエが歳を喰って大家になったからだろう」って、ホホゥ、良く分かってるじゃん。
良くお分かりですが、その分かっていない所が年齢を重ねると、タブンお分かりいただけますよ。尺八と言うより「日本伝統文化」の恥部だと言うのも本当。それこそ日本文化のキモ、外部との交流が無かった特異な風土で培われた「伝統芸」の奥深さ、複雑さだという別の一面が見えてくるとマア上出来。そこを利用できるようになったら上の上です。
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