全方向の尺八
- 2017/02/15
- 22:06
1週間くらい前に4人で来た御客、全員70過ぎの人でしたが、しばらくぶりに見たクラシックタイプの尺八愛好家達で、ふと懐かしい気持ちになりました。その日は、ちょうど同時刻に別の2人組の御客が来店して、その一人が現役の大学生でしたので、その価値観のズレたるや、まるでスレチガイです。
曲の好みでは無いですよ。どちらも目指す所は古典本曲でした。同じ志向なのに、取り組み方が違うと相互に如何に理解し合えないか良く分かりました。
それでいて4人組のリーダーは、「若い人にも言う事が分かってもらえた」と思ったようです。だけど認識における相互のズレは絶望的なまでの隔たりです。違う楽器なら違いを問題にする人も少ないのでしょうが、なまじ同じだとね・・・。
イスラムとキリスト教。この二つは言わば共通の神を信仰しているわけですね、だけど、この千年というもの喧嘩ばかりですよ。でも、例えばレパントの海戦。ドン・ジョバンニを大将とするスペイン、イタリア諸都市等の連合軍がオスマントルコの海軍を殲滅した戦いで、トラファルガー沖海戦、日本海海戦とともに「三大海戦」とも言われています。
このレパントに終結したキリスト教側は全部カソリックで、プロテスタント諸国はボイコット。理由は「カソリックよりイスラムの方がまだ親近感が持てる」でした。
1970年代の中国に行った人はお分かりでしょう、口を開けばソ連の悪口ばかり。ソ連の方はたいして中国を問題にしていませんでしたけどね。これも共通の思想基盤ですよね。
そう言えば私の学生時代の「内ゲバ」だって、同じ共産主義者だけでやられていたんですもんね。
「互いに争わないで認め合う事が大切」と仏教の僧侶で主張する人がいます。「一神教が分かっていない」と歎く人もいますが、その前に同じ仏教どうしで他宗派を批判する僧侶をタクサン知ってますぜ。
聞いていて客どうしのスレチガイは明らかです。要するに古典本曲を全くの音楽と捉えるか、それを「音を出す哲学」と思うかの違いです。別にどちらが正しいのでもありません。「違う」のです。
尺八屋としての私は、どちらの在り方も肯定します。尺八愛好家としての私はどちらの側であれ「一方的な偏り」は好きではありません。
でも、もの凄く極端な尺八論を聞くと、この尺八というものの他の音楽には珍しくなってしまった「深さ」、見る角度が反対なら「浅さ」を改めて認識して嬉しくなります。
柔道や剣道の最終目的は「自分を高める事」であって、相手を撃破する事ではないそうです。でも、初めの頃は欧米人は柔道をやる目的をインテリでも「喧嘩が強くなりたいから」だと、いともアッケラカンと言っていたそうです。今は「道の追及」と思う人も多いらしいですね。
そりゃそうだ、武道あるいはスポーツとしての柔道とは別に、喧嘩専門で相手を殺さずに始末する「警察柔道」も有りますし、そもそも純然たる格闘だったらマーシャルアーツに敵う分けないですもんね。
柔道が世界に広まったのは「格闘する哲学」でもあったからだと思います。尺八もここを目指すのが良いと私は思っています。つまり全部の在り方を認めるからこそ「多神教の真理」にも学べるのだと思いませんか?
曲の好みでは無いですよ。どちらも目指す所は古典本曲でした。同じ志向なのに、取り組み方が違うと相互に如何に理解し合えないか良く分かりました。
それでいて4人組のリーダーは、「若い人にも言う事が分かってもらえた」と思ったようです。だけど認識における相互のズレは絶望的なまでの隔たりです。違う楽器なら違いを問題にする人も少ないのでしょうが、なまじ同じだとね・・・。
イスラムとキリスト教。この二つは言わば共通の神を信仰しているわけですね、だけど、この千年というもの喧嘩ばかりですよ。でも、例えばレパントの海戦。ドン・ジョバンニを大将とするスペイン、イタリア諸都市等の連合軍がオスマントルコの海軍を殲滅した戦いで、トラファルガー沖海戦、日本海海戦とともに「三大海戦」とも言われています。
このレパントに終結したキリスト教側は全部カソリックで、プロテスタント諸国はボイコット。理由は「カソリックよりイスラムの方がまだ親近感が持てる」でした。
1970年代の中国に行った人はお分かりでしょう、口を開けばソ連の悪口ばかり。ソ連の方はたいして中国を問題にしていませんでしたけどね。これも共通の思想基盤ですよね。
そう言えば私の学生時代の「内ゲバ」だって、同じ共産主義者だけでやられていたんですもんね。
「互いに争わないで認め合う事が大切」と仏教の僧侶で主張する人がいます。「一神教が分かっていない」と歎く人もいますが、その前に同じ仏教どうしで他宗派を批判する僧侶をタクサン知ってますぜ。
聞いていて客どうしのスレチガイは明らかです。要するに古典本曲を全くの音楽と捉えるか、それを「音を出す哲学」と思うかの違いです。別にどちらが正しいのでもありません。「違う」のです。
尺八屋としての私は、どちらの在り方も肯定します。尺八愛好家としての私はどちらの側であれ「一方的な偏り」は好きではありません。
でも、もの凄く極端な尺八論を聞くと、この尺八というものの他の音楽には珍しくなってしまった「深さ」、見る角度が反対なら「浅さ」を改めて認識して嬉しくなります。
柔道や剣道の最終目的は「自分を高める事」であって、相手を撃破する事ではないそうです。でも、初めの頃は欧米人は柔道をやる目的をインテリでも「喧嘩が強くなりたいから」だと、いともアッケラカンと言っていたそうです。今は「道の追及」と思う人も多いらしいですね。
そりゃそうだ、武道あるいはスポーツとしての柔道とは別に、喧嘩専門で相手を殺さずに始末する「警察柔道」も有りますし、そもそも純然たる格闘だったらマーシャルアーツに敵う分けないですもんね。
柔道が世界に広まったのは「格闘する哲学」でもあったからだと思います。尺八もここを目指すのが良いと私は思っています。つまり全部の在り方を認めるからこそ「多神教の真理」にも学べるのだと思いませんか?
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