44年目の真実
- 2017/02/16
- 23:10
この時期でしたね、亡くなった藤田都志先生の門下生発表会、「紅梅の会」が毎年有りました。私が最初にゲスト出演(いや賛助出演だったかも知れない)して舞台をつとめたのは1973年、大学卒業の間際でした。
その時に吹いたのは「秋の言葉」。箏の本手が田巻さんと尾崎さん、そして替手が羽賀幹子先生です。私って羽賀先生との下合わせをすっぽかしたんです。「駅までは来てたのにどうしてなの?来れなかったのはアナタだけですよ」と随分と藤田先生に怒られました。
皆が不思議がった、その分けを今日44年ぶりに言いましょう。
下合わせは数回おこないました。そして羽賀先生を交えての本番1週間前のリハーサルの3日前にも藤田先生の自宅で稽古が有りまして、帰る時に「玄関のわきにコピーが有るから一枚ずつ持って行って頂戴。リハーサル会場の地図が書いて有りますから」と言われて、それで1枚とって、畳んでカバンに入れて帰りました。
リハの当日ですよ、ビックリしました。だって全然違うコピーなんだもの。コピーを積む時に、一枚だけ違う物が何かの拍子で紛れ込んだんでしょう。それまで見ておかなかったのは私の落ち度ですから、「どうしてなの?」と理由を訊かれたって言いませんわ。
せめて会場の名でも分かっていたら、場所の在る駅は知っていたんですから何とかなったんですよ。私の前座を努める為に、法政の者が他に4人出ていましたので下宿に電話したのですが全員が出た後でした。駅まで行ったら誰か箏を持った人と会うだろうと思いましたが、これも空振り。全員が会場入りした後でした。
「誰かが電話してくるだろうから、そしたら場所を訊いておいてくれ」と言い置いた自宅にも何度も電話をいれましたが、誰からも電話は無し。後で分かりましたが、演奏する15分前くらいになって心配して同僚が電話してくれていたのですが、それからは私が電話していませんで、次に電話したのは私抜きでの演奏が終わった後。
電話してくれた同僚が「大橋は駅まで来ています。場所が分からないらしいので自分が連れて来ます」と言って駅に来たのですが、それもスレチガイ。悉くタイミングが裏目に出たのです。
翌日、謝りに行きましたが、「まあアナタも駅までは来たんだし、でも何故分からなかったの?」で済みました。でも当日はカンカンだったそうです。藤田先生は気性はサッパリしていますし、一日経っていたので気持ちも治まっていました。
意外にも、この世界で「瞬間沸騰器」とか「オンナ鈴慕」と恐れられている羽賀先生は、終始ニコニコしていたそうです。この先生も爆発した後はケロっとしていますし、ダイイチこの時はゲストだったので怒る立場では無かったのでしょう。
この会だけは私達にギャラが出たんですよ。どういう計算になっているのか5人で5千何百円でしたから皆で飲んでオシマイ。タブンですが5千円が私への謝礼、何百円が後の4人の分だとは見当がつきましたが、まあ良いでしょう。私が皆に酒を奢ったと思いましょう。
昭和48年当時の頭割り一人千二百円弱、今の金額で4千円くらいですかね、これが私達全員にとっての初めての尺八演奏での評価でした。たとえ幾らであっても演奏で金を稼げた喜びを感じました。それから数え切れないほど尺八で金を稼ぎましたが、この一回目ほどの感激は有りません。ただし、この時に感じた「貰っても良いのかな?」という戸惑いも以後は回を重ねる毎に感じなくなりました。
その後は、何回出演しても藤田先生から謝礼が出る事は有りませんでした。それどころか、皆が弟子並みに舞台料を払って出たのです。
尺八界では超一流にランクされる私や同じく二流の林嵐山がノンギャラだって驚くには値しません。青木鈴慕や山口五郎といった「神様ランク」の人達だって結構ノンギャラで舞台に出てるんですよ。それでは私如きがアレコレ言えませんわ。
ちなみに私が頼んで出てもらった場合はノンギャラは有りません。これまでで私が払った一番安い謝礼ですが、「尺八ゾりスデン」。米澤浩さんに依頼して、福田、藤崎、竹井の4人の方にクリスマスパーティーでジャズを吹いて貰った時です。無理を言って4人で5万円の謝礼で承知してもらいました。いくら酒料理が付いていたとは言え、安すぎ。30年以上経った今でも恥ずかしいです。
その時に吹いたのは「秋の言葉」。箏の本手が田巻さんと尾崎さん、そして替手が羽賀幹子先生です。私って羽賀先生との下合わせをすっぽかしたんです。「駅までは来てたのにどうしてなの?来れなかったのはアナタだけですよ」と随分と藤田先生に怒られました。
皆が不思議がった、その分けを今日44年ぶりに言いましょう。
下合わせは数回おこないました。そして羽賀先生を交えての本番1週間前のリハーサルの3日前にも藤田先生の自宅で稽古が有りまして、帰る時に「玄関のわきにコピーが有るから一枚ずつ持って行って頂戴。リハーサル会場の地図が書いて有りますから」と言われて、それで1枚とって、畳んでカバンに入れて帰りました。
リハの当日ですよ、ビックリしました。だって全然違うコピーなんだもの。コピーを積む時に、一枚だけ違う物が何かの拍子で紛れ込んだんでしょう。それまで見ておかなかったのは私の落ち度ですから、「どうしてなの?」と理由を訊かれたって言いませんわ。
せめて会場の名でも分かっていたら、場所の在る駅は知っていたんですから何とかなったんですよ。私の前座を努める為に、法政の者が他に4人出ていましたので下宿に電話したのですが全員が出た後でした。駅まで行ったら誰か箏を持った人と会うだろうと思いましたが、これも空振り。全員が会場入りした後でした。
「誰かが電話してくるだろうから、そしたら場所を訊いておいてくれ」と言い置いた自宅にも何度も電話をいれましたが、誰からも電話は無し。後で分かりましたが、演奏する15分前くらいになって心配して同僚が電話してくれていたのですが、それからは私が電話していませんで、次に電話したのは私抜きでの演奏が終わった後。
電話してくれた同僚が「大橋は駅まで来ています。場所が分からないらしいので自分が連れて来ます」と言って駅に来たのですが、それもスレチガイ。悉くタイミングが裏目に出たのです。
翌日、謝りに行きましたが、「まあアナタも駅までは来たんだし、でも何故分からなかったの?」で済みました。でも当日はカンカンだったそうです。藤田先生は気性はサッパリしていますし、一日経っていたので気持ちも治まっていました。
意外にも、この世界で「瞬間沸騰器」とか「オンナ鈴慕」と恐れられている羽賀先生は、終始ニコニコしていたそうです。この先生も爆発した後はケロっとしていますし、ダイイチこの時はゲストだったので怒る立場では無かったのでしょう。
この会だけは私達にギャラが出たんですよ。どういう計算になっているのか5人で5千何百円でしたから皆で飲んでオシマイ。タブンですが5千円が私への謝礼、何百円が後の4人の分だとは見当がつきましたが、まあ良いでしょう。私が皆に酒を奢ったと思いましょう。
昭和48年当時の頭割り一人千二百円弱、今の金額で4千円くらいですかね、これが私達全員にとっての初めての尺八演奏での評価でした。たとえ幾らであっても演奏で金を稼げた喜びを感じました。それから数え切れないほど尺八で金を稼ぎましたが、この一回目ほどの感激は有りません。ただし、この時に感じた「貰っても良いのかな?」という戸惑いも以後は回を重ねる毎に感じなくなりました。
その後は、何回出演しても藤田先生から謝礼が出る事は有りませんでした。それどころか、皆が弟子並みに舞台料を払って出たのです。
尺八界では超一流にランクされる私や同じく二流の林嵐山がノンギャラだって驚くには値しません。青木鈴慕や山口五郎といった「神様ランク」の人達だって結構ノンギャラで舞台に出てるんですよ。それでは私如きがアレコレ言えませんわ。
ちなみに私が頼んで出てもらった場合はノンギャラは有りません。これまでで私が払った一番安い謝礼ですが、「尺八ゾりスデン」。米澤浩さんに依頼して、福田、藤崎、竹井の4人の方にクリスマスパーティーでジャズを吹いて貰った時です。無理を言って4人で5万円の謝礼で承知してもらいました。いくら酒料理が付いていたとは言え、安すぎ。30年以上経った今でも恥ずかしいです。
スポンサーサイト