尺八と陶芸
- 2017/03/07
- 23:04
1998年の事ですから、もうかれこれ20年近いですわな。天才琵琶弾きの関川鶴祐と椅子を並べて音楽会で聴いていました。ピアノや歌唱のコンクールで、聴衆は百人そこそこでした。
開演前に関川さんが話してきました。「大橋さん、後南朝って知ってますか?」。「ええ、知ってますよ」。「今度、その後南朝の自天王を題材にした琵琶語りを作ったんですよ」。そこから太平記の話になり、関川さんが「建武の中興」の所で、大塔宮護良を昔ながらの「だいとうのみやもりなが」と言うので、私が、今は「おおとうのみやもりよし」となったみたいですよと言いますと、説明を求められましたので、根が親切者の私が新発見の資料を解説しました。すると突然、後の席の女性から話かけられました。「すみません、私はこういう者です」と名刺を出されましたので、見ると高名な陶芸家の辻協さんです。隣には御夫君で、もっと有名な辻清明さんがいらしてました。私と関川の話から私達に興味を持ったみたいでした。
演奏会の後、コーヒーショップでしばらく話しましたが、辻清明さんは聚楽第の土で焼いた茶碗を見せてくれました。豊臣秀吉没後4百年にあたる年なので、それを記念して京都市から依頼が有ったらしいのです。
大変な有名人なので、本来なら「袖すり合うも」のコーナーでも良いのですが、辻さんとは、その後も会っていますのでね・・・。その後のお会いした時に、この「聚楽第の土」の事を言いますと、「よくぞ憶えていて下さった、有難い」と、えたく感激していただきました。
・・・って言ったって相手は辻清明、忘れるわきゃネエですよ。意外と有名文化人ってそういうものなんですかね。オイラだって有名文化人だけどね。
私は自慢じゃないが陶芸にはチョットうるさい。通と言っても過言ではない。ですから陶器と磁器の区別もつきますし、備前焼の専門店に行って「備前の瀬戸物を見せてくんな」なんて間違ってでも言いません。どうだな、見直したかな。良いんですよ、尊敬してくれても。
私の御客には他にも有名陶芸家が何人かいます。尺八と精神的に何か通じるものが有るんだと思います。そう言えば辻さんも、アメリカ人の「押しかけ弟子」が居候していて、火の番の傍ら尺八を吹いていると言ってました。
陶芸は人為を尽くしても、最後の最後は火、偶然が決めます。その所に「何か敬虔なもの」と言うか、決して神仏ではなく、強い精神の集中点の様なものが必要なのでしょう。材料の外観以外の偶然が存在しない尺八製作との相違です。
日本の陶芸家は、窯出しの後で気に入らない作品を、その場で毀すそうです。ここが韓国となると違います。出来た物にランクを付けて価格を変えて出荷するのです。ですから、街の土産物屋にも人間国宝の焼いた壺や茶碗が、私のポケットマネーで買える程度の値段で並んでいるのです。
これってどっちが良いとかの問題ではないです。日本の陶芸家が「不出来な物を世に出したくない」と考えるのも理解できますし、韓国人が「最後は偶然。その前の技は自分のもの、何の恥ずかしいことが有ろうか、安く売れば良い」という感覚も分かります。価値観の相違でしかないのです。
最終的に向き合っているのは自分の心、「自律」です。「不出来な作品を世に出したら自分の名にかかわる」とか言ったってアナタ、それなら夥しい贋作が出回っている日本の現実をどう考えるんですかい。贋作の中には少数ながらホンモノ以上の作品も有るそうですが、それだからって「わーい、オレの名が上がる」と喜ぶ事って考えずらいですよね。
プロであるからには最後は「他人の評価」です。ですから、その前は自分で決めるしかないですって。私の場合には客がどういう感想を持とうと反論はしません。単なる誤解ならまだしも、尺八の場合は「吹き手」の楽器に対する著しい認識不足が今でもなお有るんです。一つの尺八の音程は吹き方で四半音くらい簡単に変わってしまい、管楽器なら音程コントロールが楽器ごとに必須で有る事さえ分かっていない人が多い。ですから、相手が気に入らなければ買ってもらわない。簡単でしょ。
開演前に関川さんが話してきました。「大橋さん、後南朝って知ってますか?」。「ええ、知ってますよ」。「今度、その後南朝の自天王を題材にした琵琶語りを作ったんですよ」。そこから太平記の話になり、関川さんが「建武の中興」の所で、大塔宮護良を昔ながらの「だいとうのみやもりなが」と言うので、私が、今は「おおとうのみやもりよし」となったみたいですよと言いますと、説明を求められましたので、根が親切者の私が新発見の資料を解説しました。すると突然、後の席の女性から話かけられました。「すみません、私はこういう者です」と名刺を出されましたので、見ると高名な陶芸家の辻協さんです。隣には御夫君で、もっと有名な辻清明さんがいらしてました。私と関川の話から私達に興味を持ったみたいでした。
演奏会の後、コーヒーショップでしばらく話しましたが、辻清明さんは聚楽第の土で焼いた茶碗を見せてくれました。豊臣秀吉没後4百年にあたる年なので、それを記念して京都市から依頼が有ったらしいのです。
大変な有名人なので、本来なら「袖すり合うも」のコーナーでも良いのですが、辻さんとは、その後も会っていますのでね・・・。その後のお会いした時に、この「聚楽第の土」の事を言いますと、「よくぞ憶えていて下さった、有難い」と、えたく感激していただきました。
・・・って言ったって相手は辻清明、忘れるわきゃネエですよ。意外と有名文化人ってそういうものなんですかね。オイラだって有名文化人だけどね。
私は自慢じゃないが陶芸にはチョットうるさい。通と言っても過言ではない。ですから陶器と磁器の区別もつきますし、備前焼の専門店に行って「備前の瀬戸物を見せてくんな」なんて間違ってでも言いません。どうだな、見直したかな。良いんですよ、尊敬してくれても。
私の御客には他にも有名陶芸家が何人かいます。尺八と精神的に何か通じるものが有るんだと思います。そう言えば辻さんも、アメリカ人の「押しかけ弟子」が居候していて、火の番の傍ら尺八を吹いていると言ってました。
陶芸は人為を尽くしても、最後の最後は火、偶然が決めます。その所に「何か敬虔なもの」と言うか、決して神仏ではなく、強い精神の集中点の様なものが必要なのでしょう。材料の外観以外の偶然が存在しない尺八製作との相違です。
日本の陶芸家は、窯出しの後で気に入らない作品を、その場で毀すそうです。ここが韓国となると違います。出来た物にランクを付けて価格を変えて出荷するのです。ですから、街の土産物屋にも人間国宝の焼いた壺や茶碗が、私のポケットマネーで買える程度の値段で並んでいるのです。
これってどっちが良いとかの問題ではないです。日本の陶芸家が「不出来な物を世に出したくない」と考えるのも理解できますし、韓国人が「最後は偶然。その前の技は自分のもの、何の恥ずかしいことが有ろうか、安く売れば良い」という感覚も分かります。価値観の相違でしかないのです。
最終的に向き合っているのは自分の心、「自律」です。「不出来な作品を世に出したら自分の名にかかわる」とか言ったってアナタ、それなら夥しい贋作が出回っている日本の現実をどう考えるんですかい。贋作の中には少数ながらホンモノ以上の作品も有るそうですが、それだからって「わーい、オレの名が上がる」と喜ぶ事って考えずらいですよね。
プロであるからには最後は「他人の評価」です。ですから、その前は自分で決めるしかないですって。私の場合には客がどういう感想を持とうと反論はしません。単なる誤解ならまだしも、尺八の場合は「吹き手」の楽器に対する著しい認識不足が今でもなお有るんです。一つの尺八の音程は吹き方で四半音くらい簡単に変わってしまい、管楽器なら音程コントロールが楽器ごとに必須で有る事さえ分かっていない人が多い。ですから、相手が気に入らなければ買ってもらわない。簡単でしょ。
スポンサーサイト