ナメる大切さ
- 2017/03/20
- 23:05
甥や長男が尺八製作の仕事を希望した時は、正直戸惑いました。私や弟がいる間は大丈夫でしょうが、問題は一生食って行けるかです。その為に、二つ克服しなければならない点が有ります。
私は大学で尺八をやってきましたので、卒業した時点ですでに必要な吹奏力と知識のおおよその所は身に付いていました。
当時の大学クラブ出身者の大半がそうであった様に、私も、その頃の尺八師範の力量や知識、音楽認識力をコケにしていました。大学の邦楽クラブに入部して半年くらいは「尺八師範」といえば大砲だったものが、2年もすると火縄銃にしか見えなくなったものです。
だけど、甥も長男もそれまでの音楽嗜好はロックであり、邦楽、とくに尺八音楽については諸事にわたって白紙状態だった。これが問題点の①でした。
②は①に付随したことで、尺八について無知なために、この尺八界というものを過大評価しないかという事でした。私達の様な学生邦楽出身者の大半が過小評価から出発しているのも考えものですが、私達は尺八界の中に尊敬できる人や部分をチャンと持っていました。
いずれにしろ「舐めた気持ち」が無いのは問題です。これって畏敬の念が無いのと同じくらいに重大です。目標とする人達がいて、なおかつ業界全体としては舐めている、これがベストですよ。
1本の尺八を多数のプロ奏者に吹かせたとします。感想がマチマチなのはマア良いとして、甚だしい場合には真逆の事を言われたりします。客やプロの云う事を無視するのはバカのやる事ですが、さりとて重大視してイチイチ過剰反応していたら製管商売で成功できないですよ。
ここが世の中の怖いところで、一人一人の客はともかくとして、客全体となると大体において商品評価は正確な線に近くなります。「尺八界というものを成立させている部分要素」は舐めて良い。でも尺八界の部分要素には畏敬の念を持って望まないと、この尺八商売というものでは成功できないと思います。
このあたりの感覚が身に付くのは大学生だと速いですが、30過ぎると時間がかかりますし、流や社中ですと周りが本音を言わないので、ヘタすると一生身に付きません。
流や社中とは、その創生期はどうであったにしろ、時間が経つと「自己完結型」になっていきますので、どうしても自画自賛になり、その構成員はタテマエだけを言う様になります。戦時中や昔の共産圏の国民と同じですよ。
簡単に言えば、そこが「見抜けるか見抜けないか」と云う事です。商業主義を神聖視する必要は有りませんが、ほとんど商業化していなくて、まともな評論や聴衆すらいない世界では、実体を正確に把握出来ないのではないか、そういう心配が有りました。
今現在は流や社中の崩壊は誰でも分かる段階にまで進んだので、この段階に至れば流石に心配はしません。もう「新しいステージへの対応」が重要になってしまいました。
でも甥が入って来る時点では、その2,3年後に破断界が来るとまでは予想できませんでした。
私は大学で尺八をやってきましたので、卒業した時点ですでに必要な吹奏力と知識のおおよその所は身に付いていました。
当時の大学クラブ出身者の大半がそうであった様に、私も、その頃の尺八師範の力量や知識、音楽認識力をコケにしていました。大学の邦楽クラブに入部して半年くらいは「尺八師範」といえば大砲だったものが、2年もすると火縄銃にしか見えなくなったものです。
だけど、甥も長男もそれまでの音楽嗜好はロックであり、邦楽、とくに尺八音楽については諸事にわたって白紙状態だった。これが問題点の①でした。
②は①に付随したことで、尺八について無知なために、この尺八界というものを過大評価しないかという事でした。私達の様な学生邦楽出身者の大半が過小評価から出発しているのも考えものですが、私達は尺八界の中に尊敬できる人や部分をチャンと持っていました。
いずれにしろ「舐めた気持ち」が無いのは問題です。これって畏敬の念が無いのと同じくらいに重大です。目標とする人達がいて、なおかつ業界全体としては舐めている、これがベストですよ。
1本の尺八を多数のプロ奏者に吹かせたとします。感想がマチマチなのはマア良いとして、甚だしい場合には真逆の事を言われたりします。客やプロの云う事を無視するのはバカのやる事ですが、さりとて重大視してイチイチ過剰反応していたら製管商売で成功できないですよ。
ここが世の中の怖いところで、一人一人の客はともかくとして、客全体となると大体において商品評価は正確な線に近くなります。「尺八界というものを成立させている部分要素」は舐めて良い。でも尺八界の部分要素には畏敬の念を持って望まないと、この尺八商売というものでは成功できないと思います。
このあたりの感覚が身に付くのは大学生だと速いですが、30過ぎると時間がかかりますし、流や社中ですと周りが本音を言わないので、ヘタすると一生身に付きません。
流や社中とは、その創生期はどうであったにしろ、時間が経つと「自己完結型」になっていきますので、どうしても自画自賛になり、その構成員はタテマエだけを言う様になります。戦時中や昔の共産圏の国民と同じですよ。
簡単に言えば、そこが「見抜けるか見抜けないか」と云う事です。商業主義を神聖視する必要は有りませんが、ほとんど商業化していなくて、まともな評論や聴衆すらいない世界では、実体を正確に把握出来ないのではないか、そういう心配が有りました。
今現在は流や社中の崩壊は誰でも分かる段階にまで進んだので、この段階に至れば流石に心配はしません。もう「新しいステージへの対応」が重要になってしまいました。
でも甥が入って来る時点では、その2,3年後に破断界が来るとまでは予想できませんでした。
スポンサーサイト