飛躍
- 2017/04/24
- 22:11
このところの人工知能の発達は目覚ましいものがあります。もう3年もしないで、小型の音声自動翻訳機が実現し、通訳の人の大半は仕事が無くなるに違いありません。
この前の小倉の展示会にオーストラリア人が来ました。有名な会話塾で英語を教えて生活していますので、この話を振りました。もうすぐ仕事がピンチを迎えます。
「どうしたら良い?」、「尺八を教えるんだよ。日本以外ならチャンスは多いよ」。「そういう事になったら話を聞くから、よろしくね」。
こういう具合に、あらゆるビジネスがコンピューターの発達により大きく様変わりする事が避けられません。
チェスでコンピューターに負けても人は「まだ将棋が有る」、そして将棋が負けても、「機械が囲碁で人間に勝つのは、まだ何十年も先だ」と言ってきました。もう囲碁でもコンピューターには勝てません。
その事をどう思うかと囲碁ファン達に訊きますと、意外にも肯定的ですね。囲碁でも将棋でも定跡というものが有ります。これは過去の厖大な思考の集積なのです。
ときどきは途方も無い天才が出現して、それまでの常識を飛び越えた新たな戦法を編み出すのですが、それがまた新しい定跡として定着するわけです。そして、また次の天才が出る。そうして発達してきたのです。
でも、この歩みは人間の頭ですから、天才の飛躍と言っても、コンピューターから見たら、やはり先入観に縛られてもいるし、はるかに少ない過去のデーターが基礎となっている「小飛躍」でしかありません。
囲碁で最初の一目を中央に置くなどとはコンピューターでなければ考えつきません。こういう人間の頭脳では数千年かかっても、なお思いつかなかった戦法が新たに提示されて、囲碁の新たな可能性が開けて来て、囲碁ファンは残念に思うより、むしろワクワクしていると言います。
尺八のハードとしての物理も人間受けするソフトも、その仕組みを機械が解き明かす時代は、すでに部分的に始まっています。そのうちに、「こういうテクニックも原理的に使えるはず。だから努力して使えるようになろう」と普通に機械が教えてくれるでしょう。それは一種の飛躍で歓迎するべき事態だと私は思います。ですが、その逆も有るのが芸術の面白さです。
例を挙げると、脳の錯覚を利用して、動くはずがない絵が動いているのは皆さんも見た事が有るでしょう。アニメの事を言ってるんじゃないですよ。静止画で、です。
でも別の技法を使って、雪舟の水墨画では川が動いています。別に今となっては不思議でもなんでもありません。その画法がさらに発達して、漫画では人も走れば水も流れるし目に見えない風とかも見えます。そればかりか音まで画で出せていますね。ヨーロッパでは、二次元でしかない絵画を目の錯覚を利用して、見事に三次元にしてしまいました。
こういう工夫に人間の個性の差が現れるのです。そこがまた芸術表現や鑑賞の面白さでもあります。
5孔尺八では、そのままではツの大甲は出ない。この事は今では広く知られています。それをクリアする為に、今の若手プロは演奏中に膝を持ち上げて管尻を塞いで出しますが、ネプチューンさんは、手孔の大きさや位置を変え、さらに内径も変えた尺八を作るという、つまりハードの変化で35年も前にクリアしています。
一方で青木鈴慕先生はツの大甲の音程を前後の流れの中で違和感無く処理してしまいます。
コンピューターで飛躍が有ろうと無かろうと、勝ち負けや数字記録で決まらない芸術では、あくまで選択するのは個人です。一方でその選択の巾がコンピューターのおかげで劇的に増えるという飛躍が起こるのですから、私は歓迎すべきだと思います。
この前の小倉の展示会にオーストラリア人が来ました。有名な会話塾で英語を教えて生活していますので、この話を振りました。もうすぐ仕事がピンチを迎えます。
「どうしたら良い?」、「尺八を教えるんだよ。日本以外ならチャンスは多いよ」。「そういう事になったら話を聞くから、よろしくね」。
こういう具合に、あらゆるビジネスがコンピューターの発達により大きく様変わりする事が避けられません。
チェスでコンピューターに負けても人は「まだ将棋が有る」、そして将棋が負けても、「機械が囲碁で人間に勝つのは、まだ何十年も先だ」と言ってきました。もう囲碁でもコンピューターには勝てません。
その事をどう思うかと囲碁ファン達に訊きますと、意外にも肯定的ですね。囲碁でも将棋でも定跡というものが有ります。これは過去の厖大な思考の集積なのです。
ときどきは途方も無い天才が出現して、それまでの常識を飛び越えた新たな戦法を編み出すのですが、それがまた新しい定跡として定着するわけです。そして、また次の天才が出る。そうして発達してきたのです。
でも、この歩みは人間の頭ですから、天才の飛躍と言っても、コンピューターから見たら、やはり先入観に縛られてもいるし、はるかに少ない過去のデーターが基礎となっている「小飛躍」でしかありません。
囲碁で最初の一目を中央に置くなどとはコンピューターでなければ考えつきません。こういう人間の頭脳では数千年かかっても、なお思いつかなかった戦法が新たに提示されて、囲碁の新たな可能性が開けて来て、囲碁ファンは残念に思うより、むしろワクワクしていると言います。
尺八のハードとしての物理も人間受けするソフトも、その仕組みを機械が解き明かす時代は、すでに部分的に始まっています。そのうちに、「こういうテクニックも原理的に使えるはず。だから努力して使えるようになろう」と普通に機械が教えてくれるでしょう。それは一種の飛躍で歓迎するべき事態だと私は思います。ですが、その逆も有るのが芸術の面白さです。
例を挙げると、脳の錯覚を利用して、動くはずがない絵が動いているのは皆さんも見た事が有るでしょう。アニメの事を言ってるんじゃないですよ。静止画で、です。
でも別の技法を使って、雪舟の水墨画では川が動いています。別に今となっては不思議でもなんでもありません。その画法がさらに発達して、漫画では人も走れば水も流れるし目に見えない風とかも見えます。そればかりか音まで画で出せていますね。ヨーロッパでは、二次元でしかない絵画を目の錯覚を利用して、見事に三次元にしてしまいました。
こういう工夫に人間の個性の差が現れるのです。そこがまた芸術表現や鑑賞の面白さでもあります。
5孔尺八では、そのままではツの大甲は出ない。この事は今では広く知られています。それをクリアする為に、今の若手プロは演奏中に膝を持ち上げて管尻を塞いで出しますが、ネプチューンさんは、手孔の大きさや位置を変え、さらに内径も変えた尺八を作るという、つまりハードの変化で35年も前にクリアしています。
一方で青木鈴慕先生はツの大甲の音程を前後の流れの中で違和感無く処理してしまいます。
コンピューターで飛躍が有ろうと無かろうと、勝ち負けや数字記録で決まらない芸術では、あくまで選択するのは個人です。一方でその選択の巾がコンピューターのおかげで劇的に増えるという飛躍が起こるのですから、私は歓迎すべきだと思います。
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