神保三谷
- 2017/05/02
- 08:32
待ち合わせ場所って東京では何処でしょう?私の若い頃ですと、渋谷のハチ公前、新宿駅西口広場交番前、東京駅の銀の鈴、こんなところが代表的でしたな。その前の世代だと有楽町でしょうかね。フランク永井の「有楽町で逢いましょう」が大ヒットしたからですが、この歌はもともとは有楽町にオープンしたデパートそごうのコマーシャルソングだったと聞いた事が有ります。
それ以前は「君の名は」の影響で、すぐ近くの数寄屋橋が待ち合わせのメッカでした。
有楽町は信長の弟、織田有楽斎に由来すると一部で言われていますが、昔からの東京人だと首を捻る人が多いはずです。まあ本当は織田有楽とは何の関係も無いのだと私も思います。
特定人物の名に由来した地名は、日本でも町名単位であれば存在します。共産圏では昔のソ連時代のレニングラードとかスターリングラード、今だってベトナムのホーチミンとか北朝鮮の金策とか人名を都市名にしたケースが有りますが、日本では市クラスでは特定人名に由来するのは豊田市だけです。鈴鹿市も本田市になりかけたという話が有りますが、その当時に鈴鹿市の市役所にいた尺八の方に訊いたら、「本当のこと」だそうです。でも、カリスマ経営者・本田宗一郎が辞退したそうです。そりゃそうでしょうね、自分の名前を社名にしたことすら後悔したり、渋滞が起きたら迷惑だからという理由で、質素な葬儀にする事を遺言したりした本田宗一郎ですものね。
尺八の本曲でも昔は「新七薩慈」とか「転菅垣」だとか人名を冠したものが有りました。もっとも「転菅垣(コロスガガキ)」は神谷転(かみやうたた)とは何の関係も無いというのが現在では定説となっていますから、やはり人名を冠した古典本曲も少ないですね。
その中で、今でも普通に呼ばれているのは「神保三谷」です。古典本曲中屈指の名品ですし、海童道曲の「産安」とか青木鈴慕の十八番「奥州薩慈」でも知られています。
もともと三谷系の曲はサンヤスと無理に訓んで安産祈願の曲として江戸期から使われていました。ですから産安になったのでしょう。
青木鈴慕先生が「神保三谷」を「奥州薩慈」という名で演奏しだしたのは1970年代の半ばからです。竹心会系の人達は「産安のパクリだ」と怒っていましたが、その度に当時の私は真面目に否定していました。もともとは「神保三谷」ですからパクったもパクらないも無いでしょう。ですが、一言付け加えますと、「産安」は当時すでに横山勝也先生の看板曲となっていましたから、普通は、と言うより鈴慕先生でもなければ、マアやりませんわな。
もっとも、これにも異論は有ります。1970年ですが、酒井竹保先生は「横山さんの産安は私の所の神保三谷だ」と言いました。たしかに「産安」は海童道の演奏するのより竹保先生の「神保三谷」に似ています。こうなると曲に人名を前に付けるのも必要かも知れませんな。
尺八の古典本曲には夥しい同名異曲や異名同曲が有りますし、同じか別かも見解が異なる場合が有ります。そこで昔は区別する意味で曲の前に吹いた人、構成した人の名を付けたのですが、本来、曲名などには人名が冠されるものではないですから、やがて忘れられる。だって、言ってみれば誰が形造ったかなんて、どうでも良いと言えば「良い」で済みますからね。
でも、大學の時は困りましたよ。地方出身者が多かったから、東京人だけだった、それまでの高校までの感覚で待ち合わせをすると、しばしば行き違えになりました。
町田と松田を間違えて2時間も遅刻してきたバカ、町屋と間違えたアホもいましたな。ノガミ(上野)、エンコ(浅草)、ジュク(新宿)、ブクロ(池袋)なんかは当初は通じませんでしたが、地方出の者も突っ張って、別に何も恥ずかしくないのに「カッペだと思われたくネエ」で詳しく訊かないんですよ。私が念を押す性格になったのは幾たびもの誤解、行き違い、待ちぼうけを経験した為です。
今は携帯電話が有りますからね、こういうマチボウケも無くなりました。
それ以前は「君の名は」の影響で、すぐ近くの数寄屋橋が待ち合わせのメッカでした。
有楽町は信長の弟、織田有楽斎に由来すると一部で言われていますが、昔からの東京人だと首を捻る人が多いはずです。まあ本当は織田有楽とは何の関係も無いのだと私も思います。
特定人物の名に由来した地名は、日本でも町名単位であれば存在します。共産圏では昔のソ連時代のレニングラードとかスターリングラード、今だってベトナムのホーチミンとか北朝鮮の金策とか人名を都市名にしたケースが有りますが、日本では市クラスでは特定人名に由来するのは豊田市だけです。鈴鹿市も本田市になりかけたという話が有りますが、その当時に鈴鹿市の市役所にいた尺八の方に訊いたら、「本当のこと」だそうです。でも、カリスマ経営者・本田宗一郎が辞退したそうです。そりゃそうでしょうね、自分の名前を社名にしたことすら後悔したり、渋滞が起きたら迷惑だからという理由で、質素な葬儀にする事を遺言したりした本田宗一郎ですものね。
尺八の本曲でも昔は「新七薩慈」とか「転菅垣」だとか人名を冠したものが有りました。もっとも「転菅垣(コロスガガキ)」は神谷転(かみやうたた)とは何の関係も無いというのが現在では定説となっていますから、やはり人名を冠した古典本曲も少ないですね。
その中で、今でも普通に呼ばれているのは「神保三谷」です。古典本曲中屈指の名品ですし、海童道曲の「産安」とか青木鈴慕の十八番「奥州薩慈」でも知られています。
もともと三谷系の曲はサンヤスと無理に訓んで安産祈願の曲として江戸期から使われていました。ですから産安になったのでしょう。
青木鈴慕先生が「神保三谷」を「奥州薩慈」という名で演奏しだしたのは1970年代の半ばからです。竹心会系の人達は「産安のパクリだ」と怒っていましたが、その度に当時の私は真面目に否定していました。もともとは「神保三谷」ですからパクったもパクらないも無いでしょう。ですが、一言付け加えますと、「産安」は当時すでに横山勝也先生の看板曲となっていましたから、普通は、と言うより鈴慕先生でもなければ、マアやりませんわな。
もっとも、これにも異論は有ります。1970年ですが、酒井竹保先生は「横山さんの産安は私の所の神保三谷だ」と言いました。たしかに「産安」は海童道の演奏するのより竹保先生の「神保三谷」に似ています。こうなると曲に人名を前に付けるのも必要かも知れませんな。
尺八の古典本曲には夥しい同名異曲や異名同曲が有りますし、同じか別かも見解が異なる場合が有ります。そこで昔は区別する意味で曲の前に吹いた人、構成した人の名を付けたのですが、本来、曲名などには人名が冠されるものではないですから、やがて忘れられる。だって、言ってみれば誰が形造ったかなんて、どうでも良いと言えば「良い」で済みますからね。
でも、大學の時は困りましたよ。地方出身者が多かったから、東京人だけだった、それまでの高校までの感覚で待ち合わせをすると、しばしば行き違えになりました。
町田と松田を間違えて2時間も遅刻してきたバカ、町屋と間違えたアホもいましたな。ノガミ(上野)、エンコ(浅草)、ジュク(新宿)、ブクロ(池袋)なんかは当初は通じませんでしたが、地方出の者も突っ張って、別に何も恥ずかしくないのに「カッペだと思われたくネエ」で詳しく訊かないんですよ。私が念を押す性格になったのは幾たびもの誤解、行き違い、待ちぼうけを経験した為です。
今は携帯電話が有りますからね、こういうマチボウケも無くなりました。
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