価値の混乱は宝
- 2017/06/18
- 17:50
8年ぶりに入院しましたが、幸いに大した事も無く、昨日退院しました。退院して一息ついていると早速何本も電話が入り、自分が現役だという事を痛感します。
昨日今日で尺八の注文が5本、修理依頼が3本、面会が1件ですから、マズマズというところですかな。私に来る電話は尺八全般に関する相談も多いのですが、これが一番時間をとられます。相手が諸般の事情を知らない場合は、基本的な事から説明しなければなりません。
尺八の場合は、昔は「何とか流師範」とは言っても、大多数は本当は何も知らない人達でしたから、コッチの言う事を聞きっ齧りで解釈し、後でトラブった事が数知れず有りましたので、誤解を恐れて、何時しか噛んで含める様な言い方、もっとハッキリいえば曖昧な言い方はしなくなりました。ですから、自然と会話時間が長くなります。
昨日は「地無し尺八」の相談が有り、1時間とられました。友人に「地無し尺八」の製作者がおり、大変に真面目に向かい合っているので、私のルートで販売出来ないかと言うのです。
出来るわけが無いと誰でも分かりそうなものですが、尺八事情を知らない人だと、可能だと思うみたいです。
調律尺八の概念は一種類しか存在しませんが、「地無し」の場合の範囲はとても広いのです。
「地無し尺八」と一口に言っても、本当に節を抜いただけで歌口も斜めにカットしただけ、内部に色塗りもしていないのから、限りなく調律管に近いのまで有ります。つまりは昔の言い方だと「楽器から法器」まで、その間に幾つもの段階レベルに分かれます。
訊けば、色も塗ってない純然たる地無し管とか、私のスタンスを一言で言ってしまえば、「そんな素人でも作れる物をプロが売るわけない。必要なら自分で作って売る」ですが、その場合でも、相手の心情を理解し、こちらの立場を納得させないと無用の敵を造ります。
それに要したのが相手の意見を聞いて1時間というわけです。賭けても良い、私以外に「買えない理由」を1時間かけて説明する人間がいると思う?人格者の善村鹿山とか親切者の小林一城だってタブンやらねえよ。
私が特別な人格者だと言いたいわけではありませんよ。勿論、人がそう判断するのは、事実ですから敢えて否定しませんが、それよりも、尺八の大きな特長である「価値感の多様さ」を大切だと思うからです。
およそ考えられる限りで、尺八ほど愛好者の価値観が異なる楽器って無いと思いませんか?本来なら、これだけ「立ち位置」が違えば、別の存在として完全な分化が起こっていなければ、おかしかったのです。
たとえば太古の昔はトランペットとホルン、またはトロンボーン等は共通の先祖を持っていたと言う説が有ります。反面、現在は最も人気の有る管楽器の一つであるサキソフォンは、まだ誕生してから2百年経っていない為、ソプラノ、アルト、バリトン等の違い、言うならば1尺8寸とか2尺3寸とかの違いは有るものの、基本的にはアドルフ・サックスが発明した当時と何も変わりません。
尺八の歴史はかなり長いものの用途による分化は大して起きませんでした。その分、価値観による分化はチョットやソットでは互いに歩みよれないほどです。
これは尺八の巨大な長所ですよ。私は「地無し尺八」は認めないけど否定はしません。宗教や哲学にシフトする目的で「地無し」を使用する人がいる一方で、モノスゴイ音楽知識を持ったヨーロッパ人達が「地無し尺八」に傾斜している現実を見ると、芸術全般、一辺倒の価値観では何も新しい地平は開けないと痛感します。
確信を持った芸術的価値観は、それを認めないにしろ尊重せねばならない。その事が分かって欲しいからこそ、尺八界で最も忙しい私が相手が納得してくれるまで付き合うのです。「無駄な事」なんて思った事はないですよ。でも、だからこそ再度の電話で全く同一の話を蒸し返されると、電話を中断するのです。
一銭の得にもならない話に長時間相手をするのですから、せめて相手の方も真剣に向き合ってください。
昨日今日で尺八の注文が5本、修理依頼が3本、面会が1件ですから、マズマズというところですかな。私に来る電話は尺八全般に関する相談も多いのですが、これが一番時間をとられます。相手が諸般の事情を知らない場合は、基本的な事から説明しなければなりません。
尺八の場合は、昔は「何とか流師範」とは言っても、大多数は本当は何も知らない人達でしたから、コッチの言う事を聞きっ齧りで解釈し、後でトラブった事が数知れず有りましたので、誤解を恐れて、何時しか噛んで含める様な言い方、もっとハッキリいえば曖昧な言い方はしなくなりました。ですから、自然と会話時間が長くなります。
昨日は「地無し尺八」の相談が有り、1時間とられました。友人に「地無し尺八」の製作者がおり、大変に真面目に向かい合っているので、私のルートで販売出来ないかと言うのです。
出来るわけが無いと誰でも分かりそうなものですが、尺八事情を知らない人だと、可能だと思うみたいです。
調律尺八の概念は一種類しか存在しませんが、「地無し」の場合の範囲はとても広いのです。
「地無し尺八」と一口に言っても、本当に節を抜いただけで歌口も斜めにカットしただけ、内部に色塗りもしていないのから、限りなく調律管に近いのまで有ります。つまりは昔の言い方だと「楽器から法器」まで、その間に幾つもの段階レベルに分かれます。
訊けば、色も塗ってない純然たる地無し管とか、私のスタンスを一言で言ってしまえば、「そんな素人でも作れる物をプロが売るわけない。必要なら自分で作って売る」ですが、その場合でも、相手の心情を理解し、こちらの立場を納得させないと無用の敵を造ります。
それに要したのが相手の意見を聞いて1時間というわけです。賭けても良い、私以外に「買えない理由」を1時間かけて説明する人間がいると思う?人格者の善村鹿山とか親切者の小林一城だってタブンやらねえよ。
私が特別な人格者だと言いたいわけではありませんよ。勿論、人がそう判断するのは、事実ですから敢えて否定しませんが、それよりも、尺八の大きな特長である「価値感の多様さ」を大切だと思うからです。
およそ考えられる限りで、尺八ほど愛好者の価値観が異なる楽器って無いと思いませんか?本来なら、これだけ「立ち位置」が違えば、別の存在として完全な分化が起こっていなければ、おかしかったのです。
たとえば太古の昔はトランペットとホルン、またはトロンボーン等は共通の先祖を持っていたと言う説が有ります。反面、現在は最も人気の有る管楽器の一つであるサキソフォンは、まだ誕生してから2百年経っていない為、ソプラノ、アルト、バリトン等の違い、言うならば1尺8寸とか2尺3寸とかの違いは有るものの、基本的にはアドルフ・サックスが発明した当時と何も変わりません。
尺八の歴史はかなり長いものの用途による分化は大して起きませんでした。その分、価値観による分化はチョットやソットでは互いに歩みよれないほどです。
これは尺八の巨大な長所ですよ。私は「地無し尺八」は認めないけど否定はしません。宗教や哲学にシフトする目的で「地無し」を使用する人がいる一方で、モノスゴイ音楽知識を持ったヨーロッパ人達が「地無し尺八」に傾斜している現実を見ると、芸術全般、一辺倒の価値観では何も新しい地平は開けないと痛感します。
確信を持った芸術的価値観は、それを認めないにしろ尊重せねばならない。その事が分かって欲しいからこそ、尺八界で最も忙しい私が相手が納得してくれるまで付き合うのです。「無駄な事」なんて思った事はないですよ。でも、だからこそ再度の電話で全く同一の話を蒸し返されると、電話を中断するのです。
一銭の得にもならない話に長時間相手をするのですから、せめて相手の方も真剣に向き合ってください。
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