何でも食え
- 2017/06/19
- 23:07
1980年頃ですよ、民謡の発表会に行くと、人が多く大変賑わっていたものです。特に、ある程度の広域にまたがる地区連合会に行こうものならば、人であふれていました。その光景を目の当たりにして、民謡の衰退を読み取った人は、あまり多くないと思います。
その頃、私は「民謡は間もなく急激な衰退期に入り、2度と浮上しないと」と機会有る毎に発言し、また雑誌等にも書きました。
その頃に、「大橋さんの言う通り」と言って下さった人は、民謡評論家の佐藤清山さんだけだったと記憶しています。
顔についているのが節穴で無ければ、民謡界の今の事態は明瞭に見えていたはずです。あれから、まだ30年しか経っていない。予想通リの結果です。
「それ見た事か」と言いたいわけではないです。何故ならば、その時に「では、どうすれば良いのか?」と訊かれても、答えは無かった。少なくとも、私程度の頭では打開策を提示できませんでした。
「無くなりはしないさ」という発言は、その道で生活を立てている者にとって、何の意味も有りません。出来る改革をして、その世界にいて頑張る。変化する方向にシフトする。新しいウエーブを起こす。これらが産業人の大体の身の処し方でしょう。
民謡産業のブザマな衰退ぶりは、このいずれの道も採らなかったからです。すなはち、「成るようにしかならない」、あるいは諦めです。
ではどうすれば良かったか?ここに答えは無かったと既に言いました。民謡尺八ひとつを採っても、そのソフトの少なさ。もっと具体的にはソフトは一つですもんね。
合奏曲なんかも時に採用はしていても、それは古典系尺八の人の目からは「児戯」と映る程度のものでしたし、基本的に民謡界は融通の利く尺八を含めて、ソフトは民謡しか持っていなかった。民謡界の衰退の原因は100パーセントそこに有りました。
ここに古典系尺八が生き延びられた理由の大半も有ります。雑食、ありとあらゆるものを捕食する。ジャンルを細分化していく。ちょっと前まで、「あれは吹いてはいけない」と言う古典系尺八の師匠がいましたね。その前は、ソフトの制限はおろか、ソフト解釈の制限まで有りました。
地無し長管を吹く普化宗谷派、今は西村派ですか、その谷狂竹が師匠の宮川如山に破門されたのは長管を吹いたからだそうです。バカバカしいとお思いでしょうか?一つのジャンルの中ではОKなんですよ。そして、そのジャンルの消長はまた別の事。数多いジャンルの中には当然消滅するものも有りますわな・・・。
早い話が、好き勝手にやるのが発展の源だと言いたいのですよ。
その頃、私は「民謡は間もなく急激な衰退期に入り、2度と浮上しないと」と機会有る毎に発言し、また雑誌等にも書きました。
その頃に、「大橋さんの言う通り」と言って下さった人は、民謡評論家の佐藤清山さんだけだったと記憶しています。
顔についているのが節穴で無ければ、民謡界の今の事態は明瞭に見えていたはずです。あれから、まだ30年しか経っていない。予想通リの結果です。
「それ見た事か」と言いたいわけではないです。何故ならば、その時に「では、どうすれば良いのか?」と訊かれても、答えは無かった。少なくとも、私程度の頭では打開策を提示できませんでした。
「無くなりはしないさ」という発言は、その道で生活を立てている者にとって、何の意味も有りません。出来る改革をして、その世界にいて頑張る。変化する方向にシフトする。新しいウエーブを起こす。これらが産業人の大体の身の処し方でしょう。
民謡産業のブザマな衰退ぶりは、このいずれの道も採らなかったからです。すなはち、「成るようにしかならない」、あるいは諦めです。
ではどうすれば良かったか?ここに答えは無かったと既に言いました。民謡尺八ひとつを採っても、そのソフトの少なさ。もっと具体的にはソフトは一つですもんね。
合奏曲なんかも時に採用はしていても、それは古典系尺八の人の目からは「児戯」と映る程度のものでしたし、基本的に民謡界は融通の利く尺八を含めて、ソフトは民謡しか持っていなかった。民謡界の衰退の原因は100パーセントそこに有りました。
ここに古典系尺八が生き延びられた理由の大半も有ります。雑食、ありとあらゆるものを捕食する。ジャンルを細分化していく。ちょっと前まで、「あれは吹いてはいけない」と言う古典系尺八の師匠がいましたね。その前は、ソフトの制限はおろか、ソフト解釈の制限まで有りました。
地無し長管を吹く普化宗谷派、今は西村派ですか、その谷狂竹が師匠の宮川如山に破門されたのは長管を吹いたからだそうです。バカバカしいとお思いでしょうか?一つのジャンルの中ではОKなんですよ。そして、そのジャンルの消長はまた別の事。数多いジャンルの中には当然消滅するものも有りますわな・・・。
早い話が、好き勝手にやるのが発展の源だと言いたいのですよ。
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