カリスマの時代
- 2017/06/21
- 23:15
尺八界でもカリスマの時代が終ろうとしています。今現在、すでに尺八にカリスマはいません。でもまだ、その記憶や影響力が残像として残っています。もう間もなく消えるでしょう。
それが良い事か悪い事かは分かりません。個人が凄まじい影響力を発揮して、周りに集団を作り、そのエネルギーで巨大なウエーブを起こす、もう無理かもしれません。
私は少年時代にプロレスの勃興期を目の当りにしました。力道山という巨大なカリスマが出て、それまで誰も知らなかったプロレスというものを、一躍人気スポーツにしてしまいました。
力道山の生前の試合は今も見る事が出来ますが、はっきり言って大した事はありません。殺伐とした喧嘩を模したプロレスですが、技術も上手いとは言えませんし、間の取り方は悠長、技のタイミングもはずれています。一口に言って、次の馬場、猪木、吉村ほどのスケールの大きい芝居ではありませんでした。力道山在世中は、ファンばかりでなくプロレスの記者も評論家も素人でしたので、それで通ったという意見が有りますが、もう一つの面を見落とすと見誤ります。
力道山にはカリスマ性が有ったという事です。ともかくも何千万という人をテレビの前に釘ズケにしたんですもの。
カリスマが出て、その世界が興隆する。一見もっともの様ですが、そもそも「勃興エネルギー」の萌芽の無い所にカリスマは出ません。尺八では1960年代の後半にはカリスマ性を持つ人達が何人か出ましたが、戦前の中尾都山、荒木古童、吉田晴風といった人達と比較するならば、その吹奏技術はトモカクとして、やはり周りを巻き込んで動かせる質量の合計は小さいですね。
戦後は、経済成長が趣味の追い風になったとは言え、戦前の様に他の選択肢があまり無かった時代みたいにはいきません。それでも私達は青木鈴慕や横山勝也の尺八に魂を奪われました。
吹奏の技術的な追及は、今の段階では個性の発揮を妨げているのが歴然です。それが次の時代にどうなるかは別として、今の時代は青木鈴慕や山本邦山より上手な尺八家はかなりいますが、そういう問題では有りません。
かつての学生は、青木、山本、横山という人の吹奏技量を盲信していたわけでは無いのです。その人達の、時によっての不出来な演奏も何度も経験し、その都度、会の後の「飲み屋談義」では口をそろえて批判していました。でも、でもですよ、その人達の偉大さを疑った事は、少なくとも私は無かった。その意気、覚悟、土性骨みたいな技術以外の事を含めて感動していたからです。
厄介な事に、こういうモノは技術みたいに白黒がつきませんし、それ以前に本当に存在するのかどうかも証明できません。言ってみれば空気みたいなものですが、空気は存在を証明出来ますから、もっとアヤフヤなものです。
でも、それがカリスマ性というものであり、「有る無い」でなく、無ければ人を巻き込めません。
たしかに今の人は上手い。学生に貶されるよな演奏は相当に調子が悪くてもしないでしょう。でも、顔を見ないで聞いて、誰の尺八だか分かりずらいでしょう。
そう思うと寂しい気もするんですよ。カリスマになるとしたら、今のところ藤原道山くらいですかね。
それが良い事か悪い事かは分かりません。個人が凄まじい影響力を発揮して、周りに集団を作り、そのエネルギーで巨大なウエーブを起こす、もう無理かもしれません。
私は少年時代にプロレスの勃興期を目の当りにしました。力道山という巨大なカリスマが出て、それまで誰も知らなかったプロレスというものを、一躍人気スポーツにしてしまいました。
力道山の生前の試合は今も見る事が出来ますが、はっきり言って大した事はありません。殺伐とした喧嘩を模したプロレスですが、技術も上手いとは言えませんし、間の取り方は悠長、技のタイミングもはずれています。一口に言って、次の馬場、猪木、吉村ほどのスケールの大きい芝居ではありませんでした。力道山在世中は、ファンばかりでなくプロレスの記者も評論家も素人でしたので、それで通ったという意見が有りますが、もう一つの面を見落とすと見誤ります。
力道山にはカリスマ性が有ったという事です。ともかくも何千万という人をテレビの前に釘ズケにしたんですもの。
カリスマが出て、その世界が興隆する。一見もっともの様ですが、そもそも「勃興エネルギー」の萌芽の無い所にカリスマは出ません。尺八では1960年代の後半にはカリスマ性を持つ人達が何人か出ましたが、戦前の中尾都山、荒木古童、吉田晴風といった人達と比較するならば、その吹奏技術はトモカクとして、やはり周りを巻き込んで動かせる質量の合計は小さいですね。
戦後は、経済成長が趣味の追い風になったとは言え、戦前の様に他の選択肢があまり無かった時代みたいにはいきません。それでも私達は青木鈴慕や横山勝也の尺八に魂を奪われました。
吹奏の技術的な追及は、今の段階では個性の発揮を妨げているのが歴然です。それが次の時代にどうなるかは別として、今の時代は青木鈴慕や山本邦山より上手な尺八家はかなりいますが、そういう問題では有りません。
かつての学生は、青木、山本、横山という人の吹奏技量を盲信していたわけでは無いのです。その人達の、時によっての不出来な演奏も何度も経験し、その都度、会の後の「飲み屋談義」では口をそろえて批判していました。でも、でもですよ、その人達の偉大さを疑った事は、少なくとも私は無かった。その意気、覚悟、土性骨みたいな技術以外の事を含めて感動していたからです。
厄介な事に、こういうモノは技術みたいに白黒がつきませんし、それ以前に本当に存在するのかどうかも証明できません。言ってみれば空気みたいなものですが、空気は存在を証明出来ますから、もっとアヤフヤなものです。
でも、それがカリスマ性というものであり、「有る無い」でなく、無ければ人を巻き込めません。
たしかに今の人は上手い。学生に貶されるよな演奏は相当に調子が悪くてもしないでしょう。でも、顔を見ないで聞いて、誰の尺八だか分かりずらいでしょう。
そう思うと寂しい気もするんですよ。カリスマになるとしたら、今のところ藤原道山くらいですかね。
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