江戸前
- 2017/06/24
- 22:42
「青木鈴慕の尺八って江戸前の芸だよね」、こう言ったのは吉田和秀さん。山口大学のОBで広島在住です。林鈴麟さんの先輩ですよ。私も思わず頷いてしまいました。そうですよね、江戸っ子の芸です。
鈴慕先生のお父さん、つまり初代青木鈴慕は東京人ではありません。詳しく訊いたわけではないですが、何でも長野、山梨、群馬の辺りの出身です。家紋が(小笠原)三階菱ですから、元々のルーツは長野の青木家だと思います。
でも相当若い頃に東京に出て来たか、もしくは生まれた場所は東京かも知れません。御兄さんの聡次さんも尺八家でしたが、そのお父さんが尺八家だったとは聞いていません。
こういう事って、「あの時に聞いておくんだった」と思っても後の祭り。ズイブンと訊き洩らした事が有りますよ。
「江戸前」は今でも言葉として使われていますが、だいたい寿司の用語です。実体はもう有りません。今の寿司ネタといえば産地は多伎に渡っていてファンともどもインターナショナルです。かえって種類の限定されている天麩羅の方が今に至るも「江戸前」が生きていますかね・・・。
本来の意味がどうであれ、ともかく「江戸前の気風」、それに基ずく「江戸前の芸」なるものはイメージが存在しています。つまり、ヤボを嫌う、歯切れが良い、輪郭がクッキリしている、明快な表現、まだるっこしいのを嫌う、こういった所がマダマダその気になれば幾らでも挙がります。
青木師匠の尺八が江戸前の典型だと私もズ~と思って来ました。
「江戸っ子」って今はあまり使う人がいませんが、私の子供の頃まではよく耳にしました。たとえば夏目漱石の『坊ちゃん』。今これを出版したら「地方(愛媛)蔑視だ」と問題化しかねませんが、ああいう感じで使っていました。
「坊ちゃん」はモデル無しだという事ですが、昔は「あの人がモデル」と言われていた人が大勢いました。つまりは、漱石の付き合いの範囲にすら、アッチにもコッチにも似た人がいるくらい類型的な性格だったのでしょう。多くの人達が指摘する様に『坊ちゃん』の性格の一端は江戸っ子漱石自身のものだったに違い有りません。
「坊ちゃん」の性格は分かり易いという人がいる反面、行動パターンや価値基準が一定せず何とも分かり難いという人もいます。子供の時から周りじゅう「江戸っ子」だらけだった私には良く分かります。
一昔前まで、漱石の作品でアメリカで人気が有ったのが『坊ちゃん』と『こころ』でした。「坊ちゃん」の性格はアメリカ人には良く理解でき、『こころ』の「せんせい」は「日本人の不可思議さ」ゆえに読まれたらしいのです。ですが、たぶん多くのアメリカ人の「理解できる」という「坊ちゃん」の性格って、少しピントが甘いですよ。『こころ』の「せんせい」の方がまだ首尾一貫していると思います。
青木師匠の性格も「怒るポイントが分からないからコワイ」と言う人が多いですが、反対に「分かり易くて面白い」と感じる人もいます。私や林鈴麟さんとかそうですし、子供の頃から怒鳴られ馴れている人間は概してそうです。親が聞いたら泣き出すレベルの罵詈雑言や人間性否定の叱責が嫌だったら、私の時代は法政大学三曲会に一日だっていられませんでしたぜ。
ともあれ青木先生が気難しのも事実。怒りっぽい、感情に引きずられるというのも本当。でも面倒見が良く、根は優しいというのも本当。子供みたいにワガママで自分勝手だけどスジは通す。でも、そのスジの在りかが、分からない人には分からない。
でも『坊ちゃん』をちゃんと読むとタブン分かりますよ。
性格はどうであれ、青木先生の芸は、好き嫌いを別にして、おそらく「認めない」という人はいないでしょう。江戸前の料理と同じで輪郭がはっきりしていて分かり易いですからね。そして、その芸の途中で顔を出す「茶目っ気」まで聴けるようだと、聴き手としても「通」ですね。原田豊山さんなんか良く分かっていますよ。弟子で身近でショッチュウ聴いていないとナカナカ気がつきませんがね。
だってサリゲナクですからね。それが「江戸前の粋」ですよ。
鈴慕先生のお父さん、つまり初代青木鈴慕は東京人ではありません。詳しく訊いたわけではないですが、何でも長野、山梨、群馬の辺りの出身です。家紋が(小笠原)三階菱ですから、元々のルーツは長野の青木家だと思います。
でも相当若い頃に東京に出て来たか、もしくは生まれた場所は東京かも知れません。御兄さんの聡次さんも尺八家でしたが、そのお父さんが尺八家だったとは聞いていません。
こういう事って、「あの時に聞いておくんだった」と思っても後の祭り。ズイブンと訊き洩らした事が有りますよ。
「江戸前」は今でも言葉として使われていますが、だいたい寿司の用語です。実体はもう有りません。今の寿司ネタといえば産地は多伎に渡っていてファンともどもインターナショナルです。かえって種類の限定されている天麩羅の方が今に至るも「江戸前」が生きていますかね・・・。
本来の意味がどうであれ、ともかく「江戸前の気風」、それに基ずく「江戸前の芸」なるものはイメージが存在しています。つまり、ヤボを嫌う、歯切れが良い、輪郭がクッキリしている、明快な表現、まだるっこしいのを嫌う、こういった所がマダマダその気になれば幾らでも挙がります。
青木師匠の尺八が江戸前の典型だと私もズ~と思って来ました。
「江戸っ子」って今はあまり使う人がいませんが、私の子供の頃まではよく耳にしました。たとえば夏目漱石の『坊ちゃん』。今これを出版したら「地方(愛媛)蔑視だ」と問題化しかねませんが、ああいう感じで使っていました。
「坊ちゃん」はモデル無しだという事ですが、昔は「あの人がモデル」と言われていた人が大勢いました。つまりは、漱石の付き合いの範囲にすら、アッチにもコッチにも似た人がいるくらい類型的な性格だったのでしょう。多くの人達が指摘する様に『坊ちゃん』の性格の一端は江戸っ子漱石自身のものだったに違い有りません。
「坊ちゃん」の性格は分かり易いという人がいる反面、行動パターンや価値基準が一定せず何とも分かり難いという人もいます。子供の時から周りじゅう「江戸っ子」だらけだった私には良く分かります。
一昔前まで、漱石の作品でアメリカで人気が有ったのが『坊ちゃん』と『こころ』でした。「坊ちゃん」の性格はアメリカ人には良く理解でき、『こころ』の「せんせい」は「日本人の不可思議さ」ゆえに読まれたらしいのです。ですが、たぶん多くのアメリカ人の「理解できる」という「坊ちゃん」の性格って、少しピントが甘いですよ。『こころ』の「せんせい」の方がまだ首尾一貫していると思います。
青木師匠の性格も「怒るポイントが分からないからコワイ」と言う人が多いですが、反対に「分かり易くて面白い」と感じる人もいます。私や林鈴麟さんとかそうですし、子供の頃から怒鳴られ馴れている人間は概してそうです。親が聞いたら泣き出すレベルの罵詈雑言や人間性否定の叱責が嫌だったら、私の時代は法政大学三曲会に一日だっていられませんでしたぜ。
ともあれ青木先生が気難しのも事実。怒りっぽい、感情に引きずられるというのも本当。でも面倒見が良く、根は優しいというのも本当。子供みたいにワガママで自分勝手だけどスジは通す。でも、そのスジの在りかが、分からない人には分からない。
でも『坊ちゃん』をちゃんと読むとタブン分かりますよ。
性格はどうであれ、青木先生の芸は、好き嫌いを別にして、おそらく「認めない」という人はいないでしょう。江戸前の料理と同じで輪郭がはっきりしていて分かり易いですからね。そして、その芸の途中で顔を出す「茶目っ気」まで聴けるようだと、聴き手としても「通」ですね。原田豊山さんなんか良く分かっていますよ。弟子で身近でショッチュウ聴いていないとナカナカ気がつきませんがね。
だってサリゲナクですからね。それが「江戸前の粋」ですよ。
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