この前の上海展示会で尺八を買った客が7孔への改造を求めてきました。日本の演歌を7孔尺八で吹くのが主流の台湾と異なり、ソフトに演歌を使わない中国本土では7孔は無いのです。だから「へえ、珍しい」と思いましたが、もっとビックリしたのは下の小穴の音程が筒音(ロ)の半音上ではなく1音上指定であった事です。上の小穴はチの半音上ですから普通です。中国音階を演奏するには、こういった7孔尺八の方が便利ですね。要するに尺八を洞簫として使うのでしょう。
「里帰りした尺八を再び中国に根ずかせたい」、一音無心のスタッフ達もしばしば口にします。その一方で「尺八が楽器として魅力が有るから中国にも普及したい」とも頻繫に言いますから、どうも尺八の普及には微妙なナショナリズムも関わっているみたいです。
ソフトの変容に連れてハードである楽器が変化するのは当たり前。ですから日本に伝来した6孔の尺八が、いつの間にか5孔に変わっていたのです。
孔の数なんて何でも良いじゃないですか。「俺は7孔なんか認めない」と言う方はそうすれば良い。芸術ですもの個人の好みが何にも増して優先します。でも、5穴に向いていないソフトを無理してまで5孔尺八で吹くことも無いと思うんですよ。その反対に7孔で演奏した古典本曲なんて聴きたいと思いますかな。
大体において17世紀初頭からでしょ、日本の音楽が陰旋法主体になったのは。本曲の原型が出来たのは、その前でしょうから、それで言ったら古典本曲も本来は5孔尺八に向いてはいないんです。でもソフトもハードも変化しますからね。吹きやすいようにソフトをイジったり、偶然に可能だったことが時間が経つと「必然」に変わります。それそれ、それが伝統というヤツです。だから素晴らしい。
でも、どんな形であっても、それは言わば途中経過。変化の一形態に過ぎません。ですから、好みだったり商売の都合で、ある段階のものを「神聖視」したりするのは良いんですよ。でも、マジで他人の嗜好や在り方を攻撃するのは、どうかと思うんです。
ですから中国で生まれた尺八が日本バージョンに変わり、今また「中国に里帰り」して中国音楽に使われるのに適した形態になっただけの事だと私は受けとめています。
でも下の小穴がツの半音下というのは「特殊な配孔」でもないですよ。村岡実さんの尺八はツの下に2つ小穴が有りましたし、戦前の「川本式7孔尺八」では第一孔は中国バージョンと同じく筒音の1音上でした。ツの半音は第一孔を半分塞ぐと簡単に出ます。
こうしたバリエーションの増加こそが本当の意味で発展の原動力であり、またダイナミックな可能性発揮の証明に他なりません。
スポンサーサイト