スウェーデン
- 2018/05/03
- 10:56
私の子供の頃は喧嘩が日常生活の中に有りました。どこの親達も「男の子は喧嘩して当たり前」と思っていましたし、余程の段階にまでならないと、「大人は子供の喧嘩に口をはさまない」という暗黙の了解が広く守られていた時代です。
私は近所でも評判の悪ガキでしたが、それでも喧嘩が原因で近所の大人に家に怒鳴り込まれた事は1度しか有りません。私をいじめる2年上の者を待ち伏せて、大きな石を頭にぶつけたのです。相手は日頃の威勢ほども無く、大量出血で錯乱し泣いて謝るので、子供ながら寛大な私は許しました。
そしたら相手の親が間髪入れず怒鳴り込んできて、今度はうちの母親が謝る羽目になりました。でも、私の母親は大して重大視していませんでしたよ。それと言うのも、喧嘩以外の事では怒鳴り込まれるのはショッチュウだったからです。
昭和30年代までの男の子供は、ガキ大将に率いられた「近所グループ」に入るのが普通で、時には集団で近隣のグループと抗争しました。きっかけは「誰々が生意気な態度をとった」とか「うちのグループの誰それがいじめられた」という様な極くささいな事が出発で、一時交戦状態になり、しばらくすると自然に収まりました。
抗争といっても知れたもので、相手が少人数でいる所を多数で襲い、逃げ遅れたヤツ(原理的に一番年少のヤツですわな)を集団で泣くまで殴るというものです。
当然仕返しが有りますが、考えてみたら可愛いものでしたわ。これが私の父親の時代だと、集団で石をぶつけあい、相手が退却の局面になると、棒や竹竿で追い回し、逃げ遅れたヤツを竹竿や素手で滅多打ちにしたそうですから、戦後の平和憲法の教導は私達にも及んでいたわけです。
同グループに所属する近所の者同士でも、別段仲が良いとは限りませんから、時には前記の如く「身内同士での喧嘩」になります。でも、それが外部に敵を見出した時には、強い結束で結ばれた運命共同体として、「軍団抗争」に入ります。その段階でのグループ所属員の躊躇とか不参加は記憶にないのです。これは「仲間はずれが怖い」と言うよりも、当時の子供は喧嘩を恐れませんでしたし、当時でも半数位はいた「オトナシイヤツ」は初めからグループには入っていませんでした。ですから、集団抗争を、むしろ楽しんでいたんですね。
この抗争が、一回ですが「国際間紛争」に発展しました。私達の住んでいた二子玉川は幅5メートルほどの用水を挟んで、瀬田になります。昭和30年代の二子玉川は畑の方が住宅地より多い東京の田舎。対して瀬田は広壮な家が立ち並ぶ御屋敷町でした。当時の二子玉川と瀬田では、住んでいた人達の平均所得は、おそらくは5倍くらい違っていたのではないですかね。その豪邸群の一郭にスウェーデン大使の公邸が有りました。私の家から徒歩3分。その百メートル先には高倉健・江利チエミ夫妻の家が有りました。
昭和37年、このスウェーデン大使の子供達、アクセルとディター兄弟と抗争になったのです。彼らが悪いのではなく、その屋敷に書生として住み込んでいた日本人大学生が原因です。
ある日、その大使公邸の前を私達が歩いていると、キザな白い着物を着た大学生が「お前ら邪魔だ、アッチに行け」と追い払いました。すると、門が開いて自動車が出て来て、生意気な大学生は深々と腰を折って見送ります。前々からソイツの、「ここは貧民のガキの来るところじゃない」といった人を見下した態度が我々の敵意を煽っていましたが、この時はキレましたねえ。だって天下の公道ですよ。
かくて日瑞事変の勃発です。参加した人数は不定期兵まで入れてカレコレ10人でしょうか。夜中、家の庭に爆竹を投げ入れる。石を窓ガラスめがけて投げる、白昼堂々と集団で大声をあげ、人に聞かせられない様な言葉で罵るetc。
相手も激高して、時にはアクセル兄弟と大学生に混じって大人まで追いかけてきましたわ。当時は今に比べて幼稚な大人が多かったのですが、さすがに昭和37年ともなれば、それまでに聞いた事も有りませんでしたわ。ここも私の父親の時代には民族の幼稚さが一桁違い、子供同士の軍団抗争に、しばしば20歳前後の与太者が混じっていたそうです。
当時のガキは退却路を確保しないと攻撃に移らなかったものです。私達のオハコはコンクリートの長い階段。その途中にシンナーを沁み込ませたボロ布を敷いておくのです。逃げて、その所を越えたところでマッチで火を着けるのです。高く上がった火炎に阻まれて追っ手はそこでストップです。シンナーは解体屋の息子が提供してくれました。
ある日、待ち伏せていた大人に友達が捕まりました。捕虜の手を掴んで、私達を手招きしますので、私達も戻りました。捕まえた人は背広を着た中年の紳士です。
「君達はどうしてこんな事をするの?(大使の)奥さんがノイローゼになっているんだよ」。
私達も事の起こりから説明しましたよ。「分かった、君達の言い分も分かった。でも、ここで終わりにしてくれないか」。
そして私達とアクセル兄弟、大学生を呼んできて「平和協定締結」です。以後は仲直りしましたとも。でも以後もアクセル兄弟は、誘っても決して私達と一緒には遊びませんでしたね。今なら分ります。やはり世界が違ったのですよ。
何で60年近い前の事を?と言うでしょう。スウェーデンから尺八の注文が来たんですよ。スウェーデンって一般には日本人にとって遠い国です。私もスウェーデン人と会話した事はほとんど有りません。会話した事の有るスウェーデン人だと、アクセル、ディターの兄弟以外には昭和44年に国際プロレスに来たアントン・ラスロが初めてです。ただ、この人は英語が片言しか話せませんでした。一緒に来たアメリカ人レスラーはオックス・ベイカーとかスタン・ザ・ムースとか、レスラーの中でも屈指のお人好しでしたが、それでも仲間に入らず、いつもポツンとしていた記憶しか有りません。ベイカーやムースは初対面の言葉の通じない日本人でも瞬間的に仲良くなる人達でしたが、ラスロは社交な感じとは程遠い印象でした。ホント、事前の打ち合わせはどうやったんだろう?多分、勝敗の結果だけ決めて(ケツ決め)、後はアドリブだったんでしょう。それじゃ面白いゲームになるわきゃネエわな。そう言えば、その頃ですよ、アクセル・デイターというプロレスラーが存在する事も知りました。人間的に評判が悪いそうでした。ホラナ、ヤッパリ。
尺八ではバーテル・ピーターソン。2~3回電話で話ました。それより何と言ってもリンデル・グンナルでしょう。スウェーデンを中心にデンマーク、フィンランド、ノルウェーにも尺八教室を持っています。日本語ペラペラで非常にフレンドリーな巨人です。頭が良く親切で、「あれで酒癖と女癖が良ければ」とヨーロッパの尺八吹きにしばしば言われています。
尺八を注文してくれた人、今度のロンドン大会に来るそうですから、会うのが楽しみです。でも、グンナルさんに会う方が、もっと楽しみかな・・・。エッ、この年ですから、今更フリーセックスの話じゃないですよ。

グンナルさん、ドイツにて。
私は近所でも評判の悪ガキでしたが、それでも喧嘩が原因で近所の大人に家に怒鳴り込まれた事は1度しか有りません。私をいじめる2年上の者を待ち伏せて、大きな石を頭にぶつけたのです。相手は日頃の威勢ほども無く、大量出血で錯乱し泣いて謝るので、子供ながら寛大な私は許しました。
そしたら相手の親が間髪入れず怒鳴り込んできて、今度はうちの母親が謝る羽目になりました。でも、私の母親は大して重大視していませんでしたよ。それと言うのも、喧嘩以外の事では怒鳴り込まれるのはショッチュウだったからです。
昭和30年代までの男の子供は、ガキ大将に率いられた「近所グループ」に入るのが普通で、時には集団で近隣のグループと抗争しました。きっかけは「誰々が生意気な態度をとった」とか「うちのグループの誰それがいじめられた」という様な極くささいな事が出発で、一時交戦状態になり、しばらくすると自然に収まりました。
抗争といっても知れたもので、相手が少人数でいる所を多数で襲い、逃げ遅れたヤツ(原理的に一番年少のヤツですわな)を集団で泣くまで殴るというものです。
当然仕返しが有りますが、考えてみたら可愛いものでしたわ。これが私の父親の時代だと、集団で石をぶつけあい、相手が退却の局面になると、棒や竹竿で追い回し、逃げ遅れたヤツを竹竿や素手で滅多打ちにしたそうですから、戦後の平和憲法の教導は私達にも及んでいたわけです。
同グループに所属する近所の者同士でも、別段仲が良いとは限りませんから、時には前記の如く「身内同士での喧嘩」になります。でも、それが外部に敵を見出した時には、強い結束で結ばれた運命共同体として、「軍団抗争」に入ります。その段階でのグループ所属員の躊躇とか不参加は記憶にないのです。これは「仲間はずれが怖い」と言うよりも、当時の子供は喧嘩を恐れませんでしたし、当時でも半数位はいた「オトナシイヤツ」は初めからグループには入っていませんでした。ですから、集団抗争を、むしろ楽しんでいたんですね。
この抗争が、一回ですが「国際間紛争」に発展しました。私達の住んでいた二子玉川は幅5メートルほどの用水を挟んで、瀬田になります。昭和30年代の二子玉川は畑の方が住宅地より多い東京の田舎。対して瀬田は広壮な家が立ち並ぶ御屋敷町でした。当時の二子玉川と瀬田では、住んでいた人達の平均所得は、おそらくは5倍くらい違っていたのではないですかね。その豪邸群の一郭にスウェーデン大使の公邸が有りました。私の家から徒歩3分。その百メートル先には高倉健・江利チエミ夫妻の家が有りました。
昭和37年、このスウェーデン大使の子供達、アクセルとディター兄弟と抗争になったのです。彼らが悪いのではなく、その屋敷に書生として住み込んでいた日本人大学生が原因です。
ある日、その大使公邸の前を私達が歩いていると、キザな白い着物を着た大学生が「お前ら邪魔だ、アッチに行け」と追い払いました。すると、門が開いて自動車が出て来て、生意気な大学生は深々と腰を折って見送ります。前々からソイツの、「ここは貧民のガキの来るところじゃない」といった人を見下した態度が我々の敵意を煽っていましたが、この時はキレましたねえ。だって天下の公道ですよ。
かくて日瑞事変の勃発です。参加した人数は不定期兵まで入れてカレコレ10人でしょうか。夜中、家の庭に爆竹を投げ入れる。石を窓ガラスめがけて投げる、白昼堂々と集団で大声をあげ、人に聞かせられない様な言葉で罵るetc。
相手も激高して、時にはアクセル兄弟と大学生に混じって大人まで追いかけてきましたわ。当時は今に比べて幼稚な大人が多かったのですが、さすがに昭和37年ともなれば、それまでに聞いた事も有りませんでしたわ。ここも私の父親の時代には民族の幼稚さが一桁違い、子供同士の軍団抗争に、しばしば20歳前後の与太者が混じっていたそうです。
当時のガキは退却路を確保しないと攻撃に移らなかったものです。私達のオハコはコンクリートの長い階段。その途中にシンナーを沁み込ませたボロ布を敷いておくのです。逃げて、その所を越えたところでマッチで火を着けるのです。高く上がった火炎に阻まれて追っ手はそこでストップです。シンナーは解体屋の息子が提供してくれました。
ある日、待ち伏せていた大人に友達が捕まりました。捕虜の手を掴んで、私達を手招きしますので、私達も戻りました。捕まえた人は背広を着た中年の紳士です。
「君達はどうしてこんな事をするの?(大使の)奥さんがノイローゼになっているんだよ」。
私達も事の起こりから説明しましたよ。「分かった、君達の言い分も分かった。でも、ここで終わりにしてくれないか」。
そして私達とアクセル兄弟、大学生を呼んできて「平和協定締結」です。以後は仲直りしましたとも。でも以後もアクセル兄弟は、誘っても決して私達と一緒には遊びませんでしたね。今なら分ります。やはり世界が違ったのですよ。
何で60年近い前の事を?と言うでしょう。スウェーデンから尺八の注文が来たんですよ。スウェーデンって一般には日本人にとって遠い国です。私もスウェーデン人と会話した事はほとんど有りません。会話した事の有るスウェーデン人だと、アクセル、ディターの兄弟以外には昭和44年に国際プロレスに来たアントン・ラスロが初めてです。ただ、この人は英語が片言しか話せませんでした。一緒に来たアメリカ人レスラーはオックス・ベイカーとかスタン・ザ・ムースとか、レスラーの中でも屈指のお人好しでしたが、それでも仲間に入らず、いつもポツンとしていた記憶しか有りません。ベイカーやムースは初対面の言葉の通じない日本人でも瞬間的に仲良くなる人達でしたが、ラスロは社交な感じとは程遠い印象でした。ホント、事前の打ち合わせはどうやったんだろう?多分、勝敗の結果だけ決めて(ケツ決め)、後はアドリブだったんでしょう。それじゃ面白いゲームになるわきゃネエわな。そう言えば、その頃ですよ、アクセル・デイターというプロレスラーが存在する事も知りました。人間的に評判が悪いそうでした。ホラナ、ヤッパリ。
尺八ではバーテル・ピーターソン。2~3回電話で話ました。それより何と言ってもリンデル・グンナルでしょう。スウェーデンを中心にデンマーク、フィンランド、ノルウェーにも尺八教室を持っています。日本語ペラペラで非常にフレンドリーな巨人です。頭が良く親切で、「あれで酒癖と女癖が良ければ」とヨーロッパの尺八吹きにしばしば言われています。
尺八を注文してくれた人、今度のロンドン大会に来るそうですから、会うのが楽しみです。でも、グンナルさんに会う方が、もっと楽しみかな・・・。エッ、この年ですから、今更フリーセックスの話じゃないですよ。

グンナルさん、ドイツにて。
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