この頃、急に和楽器の音を耳にする事が多くなったと思いませんか?注意して聞いていてごらんなさいな、テレビの様々なシーン、旅番組や食レポはもとより、ドラマや何かの紹介のシーンでも、和楽器が使われる頻度が明らかに増えています。街のレストランなどに入っても、和楽器の音が聞こえてくることが、前より多くなりました。
ここで大切な点は、もう、そこで古典や現代邦楽が使用されているケースは「全くと言って良いほど無い」という事です。ここが見落としてはいけないポイントです。前は、和風喫茶とか和食店、あるいは「日本の伝統」をイメージさせる状況では、古典邦楽や現代邦楽、春の海だけとは言え新曲も使われていました。「それしか無いから」が理由の大半とは言え、マアそういうものでした。
今は様変わりしています。もう聞いて面白くない音楽は使われなくなりました。「面白くないだと、古典を何だと思ってる」とか私相手に言う人は、まさか、もういないと思います。「古典が良いと思わない人間が50年この世界にいて、40年尺八で生活しているはずがない」、こういう感じで受け止めてもらえる年齢に私もなってしまいました。
誰だって本心では「古典邦楽や現代邦楽に今の日本人の大多数が興味を持つことなんて有り得ない」と分かっています。「邦楽の再生」というテーマで邦楽ジャーナルが連続して特集記事を掲載していますが、そこでの「学者記事」は、一般の学者分析みたいなものの上を行くものではない(ええ、はっきり言って下ですよ)。学者の存在意義はまた別の所に有るんですが、一口に言うと「実情を理解していない」のです。ことに邦楽学者の場合は昔からそうでした。さほど商売にならない世界で、ごく少数の専門邦楽家とばかり接してきたからでしょうね。
尽きる所、邦楽は終わったのです。ですが和楽器と新しい「邦楽の雰囲気を持った音楽」は、ここ最近で急激に勢いを増しています。いくら「伝統」とか「新しい日本の音楽の創造」とか言ったって、「つまんない物はつまらない」,[それに価値を見出した少数の人がやれば良い」という方向に日本の音楽もはっきり道筋を明らかにしました。もう洗脳、お題目、勉強、修行なんかでは音楽状況は動かないという事です。
ですから、今はまた「伝統邦楽」を紹介する事が、きわめて価値を持つ時代になりました。和楽器を聞く機会の増大は、「古典邦楽」を理解する人間の絶対数をも増やすからです。「何でも有り」の価値観の分散こそ何にも増して重要であり、極く特殊なカテゴリーでも、そこに「はまる人」にとっては、そこが楽しい世界なのです。そこを実現できるスケール観を持った世界に和楽器も入り込みつつあります。そこを後押しするものこそ「商業主義」です。商業主義の悪い点など中学生でも列挙できます。でも、最もインチキの少ない世界でもあるでしょう。そこが利益を生む以上は、どんな小さな隙間にも工夫して入り込んでいきます。
ですから、これに相手にされない世界って、私は駄目だと思うんです。今また(かつての邦楽は商売になった。忘れたの?)和楽器関連で商売になりつつある状況が出てきました。
邦楽ジャーナルの田中社長は「どうか邪魔だけはしないでくれ」と言ってますが、私は違います。トコトン落ちぶれた「伝統邦楽の世界」、邪魔ったって大した事は出来ませんよ。それに、商業主義から見放された世界で、今更邪魔をするだけのパワーが有るなら、それすら「頼もしい」と私は受け止めます。
「イカン、イカン。有象無象が入ってきたら美しい伝統の世界が駄目になる」、そういう人も尺八、和楽器の世界を構成する上で、重要な人達です。「そこにこそ我が道有り」と膝を打つ人がいる以上は、多様な価値の1パートで、この世界のスケールを大きくします。
繰り返しになりますけどね、古典邦楽の良さを守る近道は「何でもオーケー」なんですよ。私はそう思います。
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