破綻と個性
- 2018/09/06
- 11:52
「今の尺八家は個性が無くなった」。よく言われる事です。「上手い、音楽的完成度は高い、だけど誰が演奏しているのか分からない。昔の尺八家は音を聞いただけで誰だか分った」。これは多くの人が指摘することです。
私達の一世代前の尺八家は、音でも旋律処理でも個性が際立っていて、確かに誰だか分かりました。でもね・・・。だからと言って「昔の方が良い」とは言えません。
これは芸術というものを、どの角度に重きを置いて見るかという事です。一昔前の名人達は、西洋の音楽基準と近い土俵に上がっていた現代曲を吹くと、日本人の洋楽ファンとか欧米人の間だと、邦楽の世界では聞けない評価がされていました。。
古典を演じている青木、山口、横山といった人達に対しては辛辣な評価は聞いた事が有りませんが、その場合でも自作曲の演奏では、,時に厳しい事を言われていました。もっとも日本でも当時の若い人(今の60代)は飲屋や学校の部室では手厳しいことを言っていましたね。でも私達は基本的に尺八演奏家のファンでもありますので、外国で聞くみたいな「突き放した言い方」はしなかったです。音感やリズム感だけを採り上げて云々すれば、それは当時の尺八家では、「音楽の化け物」がゴロゴロしている洋楽のプロとは比較の対象にはならないでしょうよ。
今の様に尺八音楽に緻密さが求められる段階になると、鑑賞の為の演奏に関しては価値基準が狭まり、個性が埋没してしまうのかもしれません。
今の尺八演奏家は実に上手い。基礎的な音楽家としての資質や能力は、一世代前の人達との比較を無意味なものにするほどの水準に達しました。
でも、だからと言って、今の演奏が青木鈴慕や横山勝也よりも、人の心をうつかと言えば、それも疑問です。去年でしたか、ネプチューン海山の息子のデヴィッドさんから質問されました。40年前、ジョン・ネプチューンがデビューした時の「評価がどういうものだったか聞きたい」というものでした。以下は私の答えです。
40年前にジョンさんがデビューした時点で言えば、スケール、音感、リズム感を含めて尺八のコントロール能力では誰も敵わなかったと思う。当然この尺八演奏家の範囲には、本来の意味での「音楽演奏が上手い」、宮田耕八朗、坂田誠山、三橋貴風を含めています。
これは個人的見解だが、当時は誰に訊いても同じような感想をもっていた様に記憶している。でも、レコードで山本邦山が演奏しているジャズを聴いてみれば良い。。その辺の感覚は人によって違うとは思うが、「コブシ」みたいなものがチョコッと顔を出す「邦山ジャズ」の方が日本人にはうけると思う。
こういうのは音楽の不思議です。カラオケマシーンで百点近く出す素人がいますが、だからって指導ならともかく実演者として、プロとして生活出来るかは疑問ですわな。
でも、ここでは昔との優劣や良否を比較するのが目的ではありません。昔の尺八家が、どうして個性的になってしまったかというのがテーマです。
それを一言で言うと、楽器がイイカゲンだったからです。音程やバランスが悪く、ポイントに当たらないと鳴らない、音によって口も顎も変える、昔の尺八を吹くのは文字通り「じゃじゃ馬ならし」でした。それを長い間の修練で自分の体の一部みたいにしたのが嘗ての尺八家達です。ソフトが本曲と三曲だった時代には、それでも大過なく演奏できました。
ですが、私を含めて、今のプロ製作者は、そういう尺八を作るわけにはいきません。いきおい均一性の方向に行ってしまい、その範疇での性能比ということになります。
こういうのも長い連続した尺八の歴史の中での一コマでしかないのでしょう。でも尺八の歴史を後に続けるためのも、今の私達は嘗ての様な尺八を作るわけにはいかないのです。
私達の一世代前の尺八家は、音でも旋律処理でも個性が際立っていて、確かに誰だか分かりました。でもね・・・。だからと言って「昔の方が良い」とは言えません。
これは芸術というものを、どの角度に重きを置いて見るかという事です。一昔前の名人達は、西洋の音楽基準と近い土俵に上がっていた現代曲を吹くと、日本人の洋楽ファンとか欧米人の間だと、邦楽の世界では聞けない評価がされていました。。
古典を演じている青木、山口、横山といった人達に対しては辛辣な評価は聞いた事が有りませんが、その場合でも自作曲の演奏では、,時に厳しい事を言われていました。もっとも日本でも当時の若い人(今の60代)は飲屋や学校の部室では手厳しいことを言っていましたね。でも私達は基本的に尺八演奏家のファンでもありますので、外国で聞くみたいな「突き放した言い方」はしなかったです。音感やリズム感だけを採り上げて云々すれば、それは当時の尺八家では、「音楽の化け物」がゴロゴロしている洋楽のプロとは比較の対象にはならないでしょうよ。
今の様に尺八音楽に緻密さが求められる段階になると、鑑賞の為の演奏に関しては価値基準が狭まり、個性が埋没してしまうのかもしれません。
今の尺八演奏家は実に上手い。基礎的な音楽家としての資質や能力は、一世代前の人達との比較を無意味なものにするほどの水準に達しました。
でも、だからと言って、今の演奏が青木鈴慕や横山勝也よりも、人の心をうつかと言えば、それも疑問です。去年でしたか、ネプチューン海山の息子のデヴィッドさんから質問されました。40年前、ジョン・ネプチューンがデビューした時の「評価がどういうものだったか聞きたい」というものでした。以下は私の答えです。
40年前にジョンさんがデビューした時点で言えば、スケール、音感、リズム感を含めて尺八のコントロール能力では誰も敵わなかったと思う。当然この尺八演奏家の範囲には、本来の意味での「音楽演奏が上手い」、宮田耕八朗、坂田誠山、三橋貴風を含めています。
これは個人的見解だが、当時は誰に訊いても同じような感想をもっていた様に記憶している。でも、レコードで山本邦山が演奏しているジャズを聴いてみれば良い。。その辺の感覚は人によって違うとは思うが、「コブシ」みたいなものがチョコッと顔を出す「邦山ジャズ」の方が日本人にはうけると思う。
こういうのは音楽の不思議です。カラオケマシーンで百点近く出す素人がいますが、だからって指導ならともかく実演者として、プロとして生活出来るかは疑問ですわな。
でも、ここでは昔との優劣や良否を比較するのが目的ではありません。昔の尺八家が、どうして個性的になってしまったかというのがテーマです。
それを一言で言うと、楽器がイイカゲンだったからです。音程やバランスが悪く、ポイントに当たらないと鳴らない、音によって口も顎も変える、昔の尺八を吹くのは文字通り「じゃじゃ馬ならし」でした。それを長い間の修練で自分の体の一部みたいにしたのが嘗ての尺八家達です。ソフトが本曲と三曲だった時代には、それでも大過なく演奏できました。
ですが、私を含めて、今のプロ製作者は、そういう尺八を作るわけにはいきません。いきおい均一性の方向に行ってしまい、その範疇での性能比ということになります。
こういうのも長い連続した尺八の歴史の中での一コマでしかないのでしょう。でも尺八の歴史を後に続けるためのも、今の私達は嘗ての様な尺八を作るわけにはいかないのです。
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