軟式野球
- 2018/09/20
- 22:29
私が公私ともにお世話になったプロレスラーのマシオ駒さん、40年以上も前に死んでしまいましたが、高校は私と同じ早稲田高校で、軟式野球部でした。資料なんかでは隣に在る早稲田実業高校となっている事が多く、その為、年代の重なる「王貞治と野球部で一緒だった」なんて書かれている事も有りますが、全く有り得ない話です。だいいち王は硬式野球部、駒さんは軟式野球部です。
軟式野球って日本発祥です。私達の年代の男は、ほぼ全員が中学までの遊びに野球をやっていた、乃至はやったことが有りました。子供が遊びでやるんですから、3割くらいが軟式ではなかったかと思います。後の7割はゴムボール。ソフトは、どちらかと言えば学校の体育の時間にやっていました。女子と一緒に出来ましたからね。
中学に入るとスポーツは専門性を持ってしまい、遊びで他のスポーツをやる事は、あまり無かったと思います。ちなみに私は中高の6年間で、スポーツ部は3つ渡り歩きました。まず俳優の梅宮辰夫が創立した剣道部、それから弓道部、最後は水泳部です。私って練習では「ネをあげない」タイプなんです。でも不思議に上達しませんでした。ですから、プロレス同好会を自分で創って、年がら年中仲間と取っ組み合いをしていました。生傷は絶えませんでしたが、毎日が夢の様に楽しかった。ですので、中高時代は野球とは縁がなく、久しぶりにやったのは大学の体育の時間でした。
いささか脱線しましたが、わが校の硬式野球部は弱く、一回も甲子園に出ていません。ですが、軟式は強く、私の在校中、数々の実績を挙げて、国体にも出ています。
でも何で軟式なんですかね?今年の高校の同期会の時に、軟式だったヤツに訊きましたよ。
「何でワザワザ軟式に入ったのさ?だって軟式ってスゲエ成績を挙げったって、それでどうなるって分けじゃないジャン。硬式とは注目度が違うし、プロに進んで金をガッポリ稼げるなんて事もないだろ」。
答え
「そりゃそうかも知れないけど、入る時はそこまで考えないよ。ましてプロだなんて、当時の子供には現実感が無いよ。今みたいに少年野球からエリートを選抜して、中学、高校とさらに選抜して甲子園、そこで注目を集めてプロ。そういう計画性を持った仕組みじゃなかったもの。オレでいえば、硬式も軟式も部員が多く、その中でレギュラーになれるよう頑張っただけさ」。
なんか尺八と似ていませんか?昭和50年代から平成10年位まで、尺八のプロ演奏家は、ほとんどが大学邦楽クラブの出身者達でした。その中で、大学に入った時点で「卒業したら尺八の演奏家になろう」と思っていた者は、おそらく1人もいなかったと思います。昭和までにプロになった人のうち、三橋貴風さんと川村泰山さんをを除く、ほぼ全員に同様の質問をしていますが、やはり誰もが大学で吹いているうちにプロになる事を選んだようです。そりゃそうでしょうよ、ほとんどの人は大学で初めて尺八の実物を手にとったんですもの。そして、吹いてるうちにプロになったわけですな。
当時(昭和40年代)の職業尺八家って、「これならオラにも出来る」ってレベルでしたもの。音程はガタガタ、コントロール能力は無い、五線譜は読めない、リズム感は「邦楽」、これでよくプロが・・・。そういうレベルでしたよ。勿論今は分かります。だって当時の尺八プロって「教え屋さん」であって演奏家ではないですもの。三曲関係で言うと、毎年毎年、全国で夥しい「おさらい会」が有りましたが、コンサートは東京でしか聴けませんでした。
軟式野球出身のプロっているんでしょうか?。軟式はプロになる事を前提にしていない、たとえそうであっても、硬式野球のプロ達が異常に低い技術レベルであったら、それは夢を見ますわな。尺八製作については、少なくとも私はそうでした。「俺が参入したら大変な事になるぞ」と本気で思っていました。謙虚な私でさえそうなんですから、きっと自信家の三塚泉州やジョン・ネプチューンはもっとですよ。
尺八もこれからは芸大卒が主流になるでしょう。今のプロ野球選手と同じで、「ある日突然に出現した」ではなく、大学受験の時点では、もう高度吹奏技能を身に着けた人達です。
思えば私達は「夢を見られる時代」に生きたんですなあ。私で言うと、一生が夢の中だったような・・・。
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軟式野球って日本発祥です。私達の年代の男は、ほぼ全員が中学までの遊びに野球をやっていた、乃至はやったことが有りました。子供が遊びでやるんですから、3割くらいが軟式ではなかったかと思います。後の7割はゴムボール。ソフトは、どちらかと言えば学校の体育の時間にやっていました。女子と一緒に出来ましたからね。
中学に入るとスポーツは専門性を持ってしまい、遊びで他のスポーツをやる事は、あまり無かったと思います。ちなみに私は中高の6年間で、スポーツ部は3つ渡り歩きました。まず俳優の梅宮辰夫が創立した剣道部、それから弓道部、最後は水泳部です。私って練習では「ネをあげない」タイプなんです。でも不思議に上達しませんでした。ですから、プロレス同好会を自分で創って、年がら年中仲間と取っ組み合いをしていました。生傷は絶えませんでしたが、毎日が夢の様に楽しかった。ですので、中高時代は野球とは縁がなく、久しぶりにやったのは大学の体育の時間でした。
いささか脱線しましたが、わが校の硬式野球部は弱く、一回も甲子園に出ていません。ですが、軟式は強く、私の在校中、数々の実績を挙げて、国体にも出ています。
でも何で軟式なんですかね?今年の高校の同期会の時に、軟式だったヤツに訊きましたよ。
「何でワザワザ軟式に入ったのさ?だって軟式ってスゲエ成績を挙げったって、それでどうなるって分けじゃないジャン。硬式とは注目度が違うし、プロに進んで金をガッポリ稼げるなんて事もないだろ」。
答え
「そりゃそうかも知れないけど、入る時はそこまで考えないよ。ましてプロだなんて、当時の子供には現実感が無いよ。今みたいに少年野球からエリートを選抜して、中学、高校とさらに選抜して甲子園、そこで注目を集めてプロ。そういう計画性を持った仕組みじゃなかったもの。オレでいえば、硬式も軟式も部員が多く、その中でレギュラーになれるよう頑張っただけさ」。
なんか尺八と似ていませんか?昭和50年代から平成10年位まで、尺八のプロ演奏家は、ほとんどが大学邦楽クラブの出身者達でした。その中で、大学に入った時点で「卒業したら尺八の演奏家になろう」と思っていた者は、おそらく1人もいなかったと思います。昭和までにプロになった人のうち、三橋貴風さんと川村泰山さんをを除く、ほぼ全員に同様の質問をしていますが、やはり誰もが大学で吹いているうちにプロになる事を選んだようです。そりゃそうでしょうよ、ほとんどの人は大学で初めて尺八の実物を手にとったんですもの。そして、吹いてるうちにプロになったわけですな。
当時(昭和40年代)の職業尺八家って、「これならオラにも出来る」ってレベルでしたもの。音程はガタガタ、コントロール能力は無い、五線譜は読めない、リズム感は「邦楽」、これでよくプロが・・・。そういうレベルでしたよ。勿論今は分かります。だって当時の尺八プロって「教え屋さん」であって演奏家ではないですもの。三曲関係で言うと、毎年毎年、全国で夥しい「おさらい会」が有りましたが、コンサートは東京でしか聴けませんでした。
軟式野球出身のプロっているんでしょうか?。軟式はプロになる事を前提にしていない、たとえそうであっても、硬式野球のプロ達が異常に低い技術レベルであったら、それは夢を見ますわな。尺八製作については、少なくとも私はそうでした。「俺が参入したら大変な事になるぞ」と本気で思っていました。謙虚な私でさえそうなんですから、きっと自信家の三塚泉州やジョン・ネプチューンはもっとですよ。
尺八もこれからは芸大卒が主流になるでしょう。今のプロ野球選手と同じで、「ある日突然に出現した」ではなく、大学受験の時点では、もう高度吹奏技能を身に着けた人達です。
思えば私達は「夢を見られる時代」に生きたんですなあ。私で言うと、一生が夢の中だったような・・・。
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